結果は同じようなものだ

曇り。
7時過ぎに起きる。
朝餉は、キャベツと玉ねぎのサラダ、みそ汁(人参、ジャガイモ、玉ねぎ、豆腐、長ネギ)、目玉焼き、トースト、紅茶。
女房は舞台を観に。夜に帰宅。
女房がよく言うのだが、こちらに戻ってくると、ここで暮らしていたことがすっかり失われてしまったような気がすると。小さいことだが、何がどこに仕舞われているか思い出せない。いちいち探さなくてはならない。あると思っていたものが、実は存在していない。何十年と暮らしていたはずなのに。
昼餉は、食パンとミルク。
これも女房がよく言うのだが、未来が見えないのだと。自分が何をしたいのか、何を考えているのか。それがよくわからない。どうしたいのか、そんなことにも答えられない。だから、あたしは軽い鬱かもしれない、と言う。
夕餉は、あれこれの残り物と買ってきた惣菜、みそ汁、チャーハン、チューハイ、コーヒー。
女房の言葉は、僕の姿を映したものなのかもしれないと思ったことがある。僕の責任なのだと。そう思う一方で、女房にはさまざまなことを語ってきた。有り体に言って、思い惑わずに目の前のことをひとつひとつこなしていけばいいのだと、そんな類のことだ。頭で考えるより、身体を動かす。動かすことを続けながら、その結果を確認しつつ、その延長で考えてみたらどうだろう。そんな感じのことを語ってきた。
女房だって僕だって人並みの人間だと思っている。女房が考えたり感じたりすることは、世間だってそうなのだ。僕はそう考えることにしている。もっと広げれば、世界中の人々が考えたり感じていることなのだと思う。
自分だけが特別に感じるような日は特にそうだ。