微細なスケール


晴れ、ときどきくもり。
四時に起きて、机へ。
昨日のキキョウは、朝に咲いていた。しっかりと、くっきりと。
女房の思惑やiPhoneのインターバル撮影なんかお構いなしだ。僕は、キキョウに恣意さえ感じてしまう。そんなもの、あるわけがなかろう。というヒトは、たぶん間違っている。
キキョウにだって、恣意はある。
古書店で買ったのをすっかり忘れて、最後のほうの頁に鉛筆の書き込みを見つけてひっくり返りそうになる。新刊を紀伊國屋で買ったとばかり思っていた。ビアリングの「植物が出現し、気候を変えた」。地球環境が、この一世紀くらいで急激に変わろうとしているのか、そうではないのか。この本が扱う時間スケールは短いもので数千万年だ。百年でなにかが変化しているとしたら(それを立証するにはもっと長いスケールが必要なのかもしれないが)、果たしてそれが明らかな変化と呼べる差異になっているのか。気になるのは、そちらのほうだ。
オゾンホールの発見とその対応が三十年ほどでできたのは科学技術の成せる業だが、二億五千万年前にオゾン層が消滅するくらいの破壊を地球は経ているらしい。たとえば、気温が十度上がるのに二千万年くらいかかっていると言われても、そのスケールがわからないのだ。
遡ること五億年のうち、その八割の期間は極地方の温度が摂氏十度くらいあって、落葉樹の森林に覆われていたことがわかっているという。地球は暖かかったのだ。そうなるともう、想像の域を超えている。
僕らが変えたと言われるこの百年のことは、まさに瞬きくらいの時間だ。化石燃料が地層からごっそり無くなっている――そのことに三億年後の学者が気づいたとして、彼はなにを思うだろう? このわずか数百年のあいだに、そういう変動があったことを(僕らとはとうの昔に断絶しているとして)、彼はどういう原因に求めるだろう。というよりも、わずか百年というスケールを特定できるだろうか。