そうだったそうだった、への着地

 

 

 

 

 

 

晴れ。13度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・大根・チーズ・カニカマ・バジル)、味噌汁(小松菜・もやし・玉葱・人参・大根・油揚げ・豆腐)、ピーマン・玉葱のピザトースト、アールグレイ。食後にコーヒー。

ジョギング、5.59キロメートル。汗をかいても、すぐ冷たくなってそのまま濡れている。冬のランニングがそこまで来ている。

昼餉は、オレンジマーマレードのサンドイッチ、カフェオレ。

あっ。

そうか。

そうだった、そうだった。

――そんな一連の流れみたいなものがめっきり減った。

まず「あっ」というやつがなくなった。気づかないので、流れていく。流れ続けていると、もうぜんぶが流れて出口も入り口もない。ぜんたいが流れている景色を思い浮かべる。見渡す限りのぜんぶが、流れている景色。右から左へ(その逆でもいい)、ぜんぶが流れている。一部ではない。どこかに土手とか堤とか、岩とか山とかは見えない。ぜんぶが流れている。しばし、その壮大な景色に溺れる。溺れるということを忘れるくらいのぜんぶだ。こいつはすごい。もともとの「あっ」がどこかへいっている。ちょっとした景色だと思う。それが己れの頭のなかに起きているのだ。

「そうか」は散々なのだ。流れているぜんぶを前にして「そうか」は待っていてもやってこない。ほんのわずかでも立ち止まらなければ「そうか」はやっていけない。ぜんぶが流れている景色はそぐわない。壮大なことと「そうか」とは交わらないのだ。かといって、流れのなかに「そうか」という竿が刺さっていれば、ぜんぶが流れていることにはならない。「そうか」はナイーブで微妙なのだ。「あっ」とつながっているようで、つながっていない。「そうか」の世界観は、だが、流れのなかに刺さっていなければならない。この撞着が「あっ」と「そうか」の関係性なのだ。

「そうだったそうだった」は誰かからの指摘への応答にかぎりなくちかい。砂漠を歩いているとカゲロウのさきに見えてくるオアシスの存在を連想させる。「そうだったそうだった」はおおきな前提として干からびているのだ。どこかに潤いが存在しなければ「そうだったそうだった」は芽生えない。「そうか」から「そうだったそうだった」へは、「あっ」から「そうか」へよりさらに難しい。

めっきり減ったのは、景色に囚われ続けてばかりで、そこから這い出てこようとしない居心地の良さへの叛逆といえそうだ。

夕餉は、サツマイモの甘露煮、マカロニサラダ、鶏肉団子と白菜・大根・焼き豆腐・シメジの常夜鍋、玄米ご飯、ウィスキー・オンザロック。食後に紅茶、カステラ。