ただのブラック・コメディじゃない

雨のち晴れ。節句。
六時に起きる。
朝餉は、小松菜と竹輪の卵とじ、レタスとキャベツのサラダ、バナナと蜂蜜入りヨーグルト、林檎、味噌汁(大根、人参、エノキ、玉葱)、トースト、アールグレイ。食後にお団子。
女房の出勤日で、お弁当。レタス、焼き鮭、卵焼き、煮豆、冷凍惣菜の蓮根挽肉揚げ、玄米ご飯の五目寿司。ホームのお婆ちゃんたちにと、女房は三色の串団子を持っていった。老いて呆けても、心はずっと女の子。
食堂でキーを叩く。
昼餉は、弁当のおかずの残り、味噌汁、五目寿司。食後にチョコレートクッキー。
夕餉は、白菜、サツマイモ、大根、肉団子の常夜鍋、玄米ご飯。清酒をすこし。食後にエクレア。
米国TVドラマ『Fargo』はコーエン兄弟が総指揮を執っている。「これは実話に基づいている」と冒頭でことわるものの、映画と同じでそれも演出の一部らしい。細部まで克明なのは、トルーマン・カポーティが徹底的に取材を重ねて著した『冷血』を思わせるが、そうした重量感はFargoからは伝わってこない。ビリー・ボブ・ソーントンが演じる殺し屋は描き込まれてるようで、実はまったくほったらかしのところが、どこか恐ろしさの演出と共鳴している。とりあえず、空恐ろしいのだ。
米国人が隣人に底知れぬ闇を見るようになったのはいつの頃からだろう。すべての理不尽なことは、恐怖を形づくる基礎の杭みたいなものだ。彼らは、それを隣家の杭に感じている。こうしたドラマは、ちょっと覗いた杭の頭の部分だ。
マッカーシーは、そこにピンスポットを当てた言葉を残している。曰く――

流血のない世界などない。人類は進歩しうる、みんなが仲良く暮らすことは可能だ、というのは本当に危険な考え方だと思う。こういう考え方に毒されている人たちは自分の魂と自由を簡単に捨ててしまう人たちだ。そういう願望は人を奴隷にし、空虚な存在にしてしまうだろう。

社会という虚構について、小説家はいつも懐疑的なものだが、マッカーシーはとりわけそう見える。堅牢な社会を築こうとすればするほど、虚構は信者の帰依を求めてくる。進歩とか平和とか、「危険な考え方」と彼が呼ぶものは、それでも社会を統べる装置として必要なのだろう。
盲信するより、虚構性を肝に銘じることのほうが健全なのかもしれない。
その場合の健全というものは、文字どおりのまったき健やかさであるのか、僕にはわからない。