Macintoshの原型


晴れのち曇り。
朝の空気がなにやら春めいている。
筋トレを二〇分ほど。
午後、銀座へ。Apple Store銀座でマランツのヘッドホンを修理に出そうとしたが、マランツの修理センターへ直接送れと言われて無駄足になる。買ったばかりなのに、三〇分もすると右側から音が徐々に消えていく。体温で暖まってくると何かが変化しているらしいのだけれど、原因はわからない。音源を軽やかに再現するので気に入りかけていたところだった。
iPadの続き。
iPadはもっともMacintoshらしいMacintoshなのかもしれない。その容姿はこれまでのパーソナルコンピュータからもっともほど遠く、ボタンやスイッチやI/Oのインターフェースが目立たず、キーボードからもマウスからも解き放たれているけれど。
パーソナルコンピューターというモノはいつかは消え去る宿命かもしれないけれど、iPadは消え入る少し手前のところまでカタチを切り刻もうとしている意志を感じる。まだ厚いし、重いし、それに指で何かをしなければ何も動かないけれど、最初のMacintoshを普通に進化させていくと、二十五年を経て、カタチはこれになるのかもしれない。
業界ではタブレットという分野の製品として当たり前のように捉えているし、スティーブ・ジョブズも第三のカテゴリーというわけのわからない領域を作ろうとしているようだけれど、僕たちが最初から求めていたMacintoshの原型というものが紆余曲折はあったもののiPadに昇華されていると思う方が自然だと思う。iWorkがインストールされている意味は、まさにそういうところにある。
本を買う。サイモン・シン/エルツァート・エルンスト著、青木薫訳「代替医療のトリック――Trick or Treatment?」(新潮社)。鍼からリフレクソロジーまでさまざまな民間医療を俎上に載せて、そのほとんどがプラセボ効果しかないと切って捨てているような感じが漂っている。もっともプラセボ効果が科学的に完全に解明されてはいないはずなので、効果ナシと切って捨てるには早過ぎないかという気もする。
サイモン・シンはヒポクラテスの言葉を最初に引用している。

科学と意見という、二つのものがある。
前者は知識を生み、後者は無知を生む。

もっとも、日々増殖している科学は、昨日まで迷信と思われていた事象をいとも簡単に組み込んで今日に至っている。プラセボ効果がいつの日にか完全な科学領域になることも否定はできない。僕たちの周囲には科学の衣をまとった地動説が掃いて捨てるほどある。これがもっとも手に負えない現代の壁になっているのは論を俟たない。
曰く、

実証されているんだから議論の余地はない。

という論旨に僕たちは盲目的に服従する。そこに現代の壁がそびえ立っている。