シマードという煙の色

 

 

くもり。21℃。
6時におきる。
あさメシは、アガベシロップとヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(キャベツ・きゅうり・だいこん・だいず煮・チーズ・カニカマ)、みそ汁(さつまいも・たまねぎ・にんじん・あぶらあげ・とうふ)、たまごサンドウィッチ、紅茶。

ジョギング、7.74キロメートル。最大心拍数128bpm、最高速度8.0kph。

リチャード・パワーズの長編である『The Overstory』に登場する女性植物学者のモデルがスザンヌ・シマードであることは植物学界隈にとって周知の事実といっていいらしい。そのシマードが著した大部『マザーツリー』は真打ちとして5年前に刊行された。本書によってシマードは研究者たちの世界に物議を醸すことになる。その余波は続いている。なにしろ、インパクトは強かった。植物のかたくなに動かないかのような生態に(それは表層を見ているにすぎないのだけれど)、文字どおり光を当てたのだから。シマードの学説を否定しつづける研究者は、実験の再現性に乏しいことを挙げた。それほど彼女の研究はユニークで、受け入れがたいものだったのだろう。ボクのような素人は、植物学会の保守的で地盤が強固であることをシマードによって知るきっかけになったのだけれど、どこかで彼ら頑固者たちにもっとしっかりしろとエールを送っているフシもなきにしも非ずなのだ。それくらい新説は魅惑に満ちており、なおかつ説得力があって、ボクのような新しもの好きは喜んで飛びついてしまう。だからこそ、無知には注意したいとおのれを戒めるところがあるのだ。

ひるメシは、ミルクをかけたシリアル。

’73年に米国で出版された『植物の神秘生活(The Secret Life of Plants)』によって著者のピーター・トムプキンズとクリストファー・バードは時の人になり、日本でもベストセラーとなった。植物にポリグラフをつなぐとヒトの殺意や愛情を読み取って植物は恐怖に震えるといった説を大真面目に紹介したのだから。のちの「植物感情説」の元祖となったのだが、これがトンデモ本であることを、植物学者たちが検証して白日のもとにさらした。この本が世間にもたらした興奮は、それが作り物だった反動もあって植物関連の新説はうさん臭いという根拠のない風潮さえ生むにいたる。その傷跡はいまも残っている。
最初のころ、シマードはそうした偏見や風潮とも戦っていたのだが、今では彼女の説はおおかたは受け入れられている。植物は孤立して生きているのではなく、地下のネットワークを通じて互いに会話し、助け合っているという、ボクらからしたら至極まっとうな説を、植物学会は当初つめたくあしらったものだ。
学会のトラウマは癒えただろうか——新しい説が登場するたび、ボクらは頑固者たちのさざめきに耳を傾ける。それは煙の色を無心に見上げて教皇を待ちのぞむ儀式に似ていなくもない。

ゆうメシは、だいこんの皮・にんじんのきんぴら、ポテトサラダ、アジフライ、餃子、みそ汁(じゃがいも・だいこん・にんじん・あぶらあげ・とうふ)、ごはん、南部せんべい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏の名残り

 


ハレ。29℃。
6時におきる。
あさメシは、アガベシロップとヨーグルトをかけたリンゴ、サラダ(キャベツ・きゅうり・コーン・だいず煮・チーズ・カニカマ)、みそ汁(さつまいも・たまねぎ・にんじん・あぶらあげ・とうふ・しめじ)、たまごサンドウィッチ、紅茶。

ジョギング、7.26キロメートル。最大心拍数136bpm、最高速度10.6kph。

ひるメシは、妻のつくった冷やし中華。

バイクを漕いで図書館へ。取り寄せ本を受けとる。スザンヌ・シマード著、三木直子訳『マザーツリー 森に隠された「知性」を巡る冒険(Finding The Mother Tree)』(ダイヤモンド社)。

ジョギング・シューズを求める。New Balance M460 V4。一年もってくれるだろうか。

公園でツクツクボウシが鳴いている。サルスベリの花が散ってしまい、地面が薄桃色におおわれている。

ゆうメシは、やっこ、だいこん・にんじんのきんぴら、みそ汁(しめじ・さつまいも・にんじん・あぶらあげ・とうふ)、親子丼。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フォアフットの受難?

 


くもり。20℃。
6時におきる。
あさメシは、アガベシロップとヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(キャベツ・たまねぎ・きゅうり・コーン・だいず煮・チーズ・カニカマ)、みそ汁(さつまいも・たまねぎ・にんじん・あぶらあげ・とうふ)、バタートースト、紅茶。

ジョギング、3.42キロメートル。最大心拍数120bpm、最高速度9.7kph。
ソールの爪先のほうがすり減るのは、ボクが鈍足になったとはいえフォアフット・ランニングを続けているあかしだとおもっている。でも、多くのシューズメーカーはフォアフット専用は作っていない、どうしても爪先からすり減ってしまう。今のアシックスJolt5はジョギング用としてはいちばん安いモノ。去年の10月17日から履きはじめてほぼ1年で1100キロメートルをあとにして力尽きた。

ひるメシは、ミルクをかけたシリアル、かりんとう。

新しいシューズを買いたいけれど、一昨年のやつをひっぱり出してきた。ミズノのこれもいちばん安いモデルだった。ソールは爪先がすり減って今にも穴があきそうだ。あと何キロメートル走れるだろう……。

ゆうメシは、さつまいもの甘露煮、だいこんとウィンナーソーセージの煮もの、みそ汁(さつまいも・たまねぎ・にんじん・あぶらあげ・とうふ)、チキンライスのオムレツ、白湯、ピーナッツせんべい。

今月の総括をば。アクティビティは19日、総距離は102.13キロメートル(8.05キロメートルのウォークをふくむ)、股関節まわりの筋トレは毎日、スクワットはときどき。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こけおどしのオデュッセイア

 

 

アメ。21℃。
5時におきる。
あさメシは、アガベシロップとヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(キャベツ・たまねぎ・きゅうり・コーン・だいず煮・チーズ・カニカマ)、みそ汁(しめじ・さつまいも・たまねぎ・にんじん・あぶらあげ・とうふ)、たまごサンドウィッチ、紅茶。

妻と乗り換え駅のシネマコンプレックスへ。クリストファー・ノーラン監督・脚本の『The Odyssey(オデュッセイア)』。原作は言わずと知れたホメロスの叙事詩だ。ボクらはIMAXで観た。鳴り物入りの作品だったからこそ、ボクらは正直なところあまり期待していなかった。3時間はいかにも長いし、きっと尻が痛くなって集中力も消える。それを見透かしたように、戦いの派手なシーンが挟み込まれるにちがいない、とタカをくくっていた。
IMAXの音響は耳をつんざくもので、「これを3時間つづけるの?」と妻はあきれたらしい。その轟音はパターン化されたもので、じょじょに平板に聴こえるようになり、最後はうっとうしくなった。
砂に下半身が埋まったトロイの木馬のシーンはふかく脳裏にのこるふしぎな造形であったものの、それに続く帰郷の旅に描出の妙を見つけることはかなわなかった。作りモノのシーンが訴えかけてくるものは乏しく、その多くがこけおどしだった。神話の時代にふさわしい造形を見いだすことはできなかった。

ゆうメシは、定食屋で豚汁と十五雑穀米のセット。

帰宅して棚から文学全集にあったギリシャ神話の巻を抜きとる。オデュッセイアはそのほとんどを忘れている。ボクらの神話の時代である古事記でさえうろ覚えなのだから。

ずっとアメ。妻はそうそうに寝る。疲れました、と言って。

移動をかねたウォーキングは2.9キロメートル。5450ステップ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

観察にはじまり、観察におわる

 

 

あめ、降ったりやんだり。23℃。
5時におきる。
あさメシは、アガベシロップとヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(キャベツ・たまねぎ・ミニトマト・コーン・だいず煮・チーズ・カニカマ)、みそ汁(たまねぎ・にんじん・だいこん・とろろ・あぶらあげ)、たまごサンドウィッチ、紅茶。

ジョギング、4.99キロメートル。最大心拍数125bpm、最高速度24.8kph(コレはバグだ)。

ひるメシは、ミルクをかけたシリアル、ドーナッツ。

ファーブルの『植物記』と向きあっていると、冗長に見える文章が対象と正対していなければ紡げないものであることがわかる。もくもくと観察していればこその目のやりようがいかにもファーブルらしい。特別な実験道具をつかうわけではないし、一足飛びの仮説をたてるわけでもない。よく見ること、それだけなのだが、それこそがだいじだと彼は無言のうちに語っている。修道僧のようなその姿が、行間から立ちあがってくる。そんな集中力を支えていたのは、真実を導きだそうする対象への愛情だったのではあるまいか。まばたきさえ惜しむかのように、ファーブルは見入っていたのだろう。
冒頭に書いているとおり、読者は子どもたちである。だが、その筆致に長幼の序はない。むかし子どもだった大人でさえいつのまにか一心に読んでいる、それほどの熱意がファーブルの目にはみなぎっていたのだ。ボクらは、彼の眼力にみずからの目を知らずしらず託している。永遠に解けない魔法をかいま見ているようだ。

ゆうメシは、妻と買い物がてらマクドナルドへ。フレンチフライ、エッグチーズバーガー、コーヒー、月見パイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

33日目

 

 

くもり。22℃。
5時におきる。
あさメシは、アガベシロップとヨーグルトをかけたリンゴ、サラダ(キャベツ・だいこん・たまねぎ・チーズ・コーン・だいず煮・カニカマ)、みそ汁(えのき・しめじ・たまねぎ・にんじん・あぶらあげ・とうふ)、たまごサンドウィッチ、紅茶。

ジョギング、6.09キロメートル。最大心拍数136bpm、最高速度11.7kph。

ひるメシは、ミルクをかけたシリアル、チーズ。

今日で33日間、雨が降ったことになる。’19年に記録した最長に並んだ。どうやら明日も降るらしい。線状降水帯によって被災した千葉は、復旧に3ヶ月もかかる路線があるけれど、次の台風がおなじルートをたどってくると予想されている。場所によっては、冠水がひいておらず、停電が続いているという。

ゆうメシは、なっとう、さつまいもの甘露煮、ダイコンと鯖の煮もの、みそ汁(えのき・しめじ・だいこん・にんじん・あぶらあげ・とうふ)、ごはん、クッキー、コーヒー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ファイティング・ポーズ

 

 

アメ。22℃。
6時におきる。
あさメシは、アガベシロップとヨーグルトをかけたリンゴ、サラダ(キャベツ・たまねぎ・ミニトマト・コーン・だいず煮・チーズ・カニカマ)、みそ汁(えのき・しめじ・にんじん・たまねぎ・あぶらあげ・とうふ)、ピザトースト、紅茶。

妻は友人の落語会へ。夕方、もどる。

米中首脳会談がおわって、AIをSI(Super Intelligence)と呼ぶことに合意したと米側は発表したらしい。だが、中国側は米国側の提案を尊重するという表現をしたものの、合意したとされる発表文書にSIというコトバは使わなかった。この二大大国の合意がこのレベルであることをボクらは受け止めるしかない。国はちがっても、だいたいはおなじだ。町内会だっておなじようなものなんだから。

ひるメシは、ミルクをかけたシリアル。

俺らは、あの戦争で手を取り合って戦ったよな。どんなときも、それを忘れずにいような——そんなことを会談では話し合ったという。で、この国の首相は、びっくりして電話したらしい。みっともないことだ。イタリア人は、もうちょっと気骨のあるところ見せたものだが。

ゆうメシは、やっこ、焼売、中華スープ(だいず煮・キャベツ・にんじん)、炒飯(たまねぎ・にんじん・コーン・ウィンナー)、黒糖あめ、クッキー。

 

 

 

 

 

 

 

 

台所のカミサマ

 


日射しあり、夜にアメ。26℃。
6時におきる。
あさメシは、アガベシロップとヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・きゅうり・たまねぎ・コーン・大豆に・チーズ・カニカマ)、みそ汁(えのき・しめじ・にんじん・たまねぎ・ズッキーニ・あぶらあげ・とうふ)、バタートースト、紅茶。

ジョギング、7.55キロメートル。最大心拍数143bpm、最高速度12.6kph。

たとえば醤油ボトルを使い切ったところで、ふと立ち止まる。キャップになっているプラスチックの蓋、ワンタッチで開くことができるアレである。廃棄するとなるとボトルと一緒ではダメだと、自治体が言っている。専用のゴミとして出すようにと。
ボクは料理をはじめてしばらくしてから、こうした分離して捨てるモノたちと対峙することになった。ちょっとした知恵なのだが、台所はそうしたライフハックであふれている。わかってしまえば、たいしたことじゃないモノゴトの集まりだ。
キャベツの千切りについてさえ、ボクはつい最近、ちょっとした知恵を土井善晴さんの一言から知ることとなり、おもわず大きな声をだした。そんな知恵が積み上がって、台所は台所になっている。偉そうに書いているのはわかっている。食い物は、そういうことなのだとおもう。先人の知恵を知るには、台所に立つしかない。ちゃんと受け渡してもらうには、まずはおのれが知恵を持っていなければならない。レシピは、そのとおりに作ったつもりになっているだけでは、まだ料理とは言えない。
だからおもうのである、台所に立っている女性は、生きる知恵袋なのだと。それを声高に言わないのは、先人からの申し送り状に「偉そうにしなさんな」と書かれているからだ。日本の女性は、だから奥ゆかしい。そして、ダシなんかいちいち取っている場合じゃない日々の暮らしで、知恵を動員しているのである。
仕事を辞してのち、妻に「今日から料理はボクが作ります」と伝えてからずっと、妻は黙ってボクの悪戦苦闘を見てきた。ボクが尋ねるまで口を挟まず、ごくたまに「おいしかったよ」と言ってくれた。
頭が下がるのである、そういう時間を妻は黙って作っていたのだから。

ひるメシは、妻の作った冷やし中華。

新参者は、いまだに大きな声で得心したり、目からウロコが落ちる音を聞いている。すこしは大丈夫かな、とおもえるようになるには10年くらいたってから振り返らなければいけないだろう。いまは、とてもじゃないがダメだ。ほんとに、そうおもう。
寿命のことを考えるのは、そういう自省のときである。

どうか台所のカミサマ、あと10年くらい時間をいただけませんか。

マジでそうおもっている。ただふつうに料理を作れるようになりたいから、そうおもっている。

ゆうメシは、なっとう、やっこ、ピーマンのぶた肉はさみ焼き、みそ汁(えのき・しめじ・たまねぎ・にんじん・あぶらあげ・とうふ・ズッキーニ)、ごはん、どら焼き。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トリ族の反乱

 


おおむねハレ。28℃。
6時におきる。
あさメシは、アガベシロップとヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・きゅうり・たまねぎ・コーン・だいず煮・チーズ・カニカマ)、みそ汁(えのき・しめじ・にんじん・たまねぎ・あぶらあげ・とうふ)、たまごサンドウィッチ、紅茶。


『イカの心身問題 頭足類から考える意識の起源』より抜粋——


(前略)
 どの生物にも、「自分」と「外界」との区別はある。生物自身がそれを認識しているか否かには関係なく、その区別は存在する。あらゆる生物は外界に影響を与える。その事実を生物自身が把握している場合もそうでない場合もあるが、影響を与えることは間違いない。ただ動物は、その多くが、自らの行動の影響を少なくともある程度は把握している。そうでなければ、行動を取ることが難しくなるからだ。それに対し、植物は非常に優れた感覚を持ってはいるが、動くことがない。また細菌は、動くことはできるが、簡単な感覚しか持たないため、自らの行動の影響で混乱する恐れは少ない。先述のミミズのようなことは起きにくいのだ。(後略)


まあ、そういう見方は著者の専門である生物哲学という分野でも、いくばくかはあるんだろうか。植物は、動かない——ざっぱくな物言いを鵜呑みにしていることのなんと多いことか。種が異なれば、おなじコトバでも意味は大きく変わる。それが異種コミュニケーションにおけるルールとなる日はまだ先のことだろう。それでも今世紀中には、クジラやタコと話しあうことは常態化しているだろうし、植物全般とも話している可能性も否定できない。そのとき、ヒトは言葉を拡張せざるをえなくなるだろう。ひょっとしたら、それは言語におけるビッグ・バンと呼ばれるかもしれない。ヒト種のうちで使っていたコトバは、いわば方言になる。生物界にはいくつかの種ごとにさまざまなコトバが生まれるかもしれない。ボクらは、そういう意味では未開時代の最後の生き残りとして語られることになるかもしれない。


ひるメシは、クリームあんぱん、ミルク。

ペットとして飼われていた鳥類の反乱がおきる可能性は否定できない。生き物における権利の法制化は、地球における最後の戦いになるやもしれぬ。ボクらは、野蛮な種として法廷に立つ日が来ないともかぎらない。
ベジタリアンが安息の日を迎えることはなさそうだ。植物界の怒りは、ボクらを殲滅させかねない感情のうねりとなることも考えられる。


ゆうメシは、ポテトサラダ、オクラのごま和え、みそ汁(えのき・しめじ・たまねぎ・にんじん・あぶらあげ・とうふ)、鶏むね肉のから揚げ、ビール、小豆あん串団子。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エフゲニー・コロリオフへ感謝を

 

 

くもり、たまにポツリと。22℃。
6時におきる。
あさメシは、アガベシロップとヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・きゅうり・たまねぎ・コーン・だいず煮・チーズ・カニカマ)、みそ汁(たまねぎ・にんじん・えのき・しめじ・あぶらあげ・とうふ)、たまごサンドウィッチ、紅茶。

妻は友人との会食へ。夜にもどる。

ジョギング、4.60キロメートル。最大心拍数155bpm、最高速度9.6kph。

ロシアのピアニスト、エフゲニー・コロリオフの弾くJ・S・バッハはどれもすごい。『フーガの技法』も『平均律クラヴィーア』も『パルティータ』も『ゴルトベルク変奏曲』も。いま、なにが起きているのか、ということをストラクチャーとしてわかりやすく示してくれる。バッハという男の手触りをじかにこの手に取ることができるのだ。
正直にいえば、それまでのボクは、コントラプンクトのことを耳元で飛びまわる、せわしないハエの羽音くらいにしかおもっていなかった。世界の名だたるピアニストは、ボクのみすぼらしい耳にはなにももたらしてくれてはいなかったことが、コロリオフを聴くことでわかった。とてもショックなことだった。はるか遠方の工場群が、一つひとつくっきりとその輪郭をあらわにする。ぼんやりだった景色が、意味のある風景となって眼前に繰り広げられるのだった。
グレン・グールドが『間奏曲集』を弾くことで、隣人の気のおけない爺さんとしてブラームスを紹介してくれたのとおなじようなものだった。

ひるメシは、ミルクをかけたシリアル、生姜せんべい。

そんな途方もない気づきをもたらしてくれたことに、どうやって感謝を伝えればいいのだろう。彼が初来日して東京・王子ホールで『ゴルトベルク変奏曲』を演奏したのは18年もまえのことで、聴衆は熱狂したことが伝わっている。来月で77歳になる彼が再来日することはあるだろうか。

ゆうメシは、アーリオオーリオ・ペペロンチーノ(ウィンナーソーセージ・たまねぎ)、ビール、せんべい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タツジンとヨコヅナ

 


ハレ。30℃。台風一過。
6時におきる。
あさメシは、アガベシロップとヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・たまねぎ・茹でもやし・コーン・だいず煮・チーズ・カニカマ)、みそ汁(えのき・しめじ・にんじん・たまねぎ・あぶらあげ・とうふ)、たまごサンドウィッチ、紅茶、パンの耳のラスク。

シェアカーを借りて、妻を博物館へ送る。お茶と太極拳の教室。かえりは歩いてきた。クルマは日産のオーラe-Power。

ニール・ヤングつながりというわけではないけれど、細野晴臣さんの新譜『Yours Sincerely』を聴いている。どことなく、しあわせな気分が湧いてくるでもなく。考え疲れたときに、かたわらに置いておきたいアルバムは23作目という。
つれづれに俳句を詠むように、細野さんはひょいとひねりだしてみせる。瞬発と洞察が、渾然としてそこにはある。片方がもう一方を支えているようで、あるいはその逆でもあるのだ。ずっと細野さんはそうやってレコーディングをかさねてきたのだとおもう。
そういうヒトのことを、ボクらは畏怖を込めて「タツジン」と呼んだりして、ともすると祭りあげたがるのだが、おおくのタツジンの例にもれず、細野さんはさっさとどこぞへ逃げていってしまう。その天翔けるような逃げ足にはチャーミングな含羞がひそんでおり、誰もがそれを気に入っている。
人びとは用心するように、ささやくことをおそれる。「これもけっして名作とは呼ぶまい」と。逃げたさきざきに居つかれてしまうと、困るのはこちらなのだから。

ひるメシは、ミルクをかけたシリアル、かりんとう、白湯。

秋場所、土俵ぎわで横綱が苦しまぎれに飛んだり跳ねたりしている。背中に羽のひとつも生えている、そんな姿を見ているボクらは虚を衝かれ、おし黙ってしまう。毒気に当てられたかのように。
横綱というよりヨコヅナである。股を割り、低くかまえて四股を踏むのが横綱なら、あの飛んだり跳ねたりは天使のようなものかもしれぬ。体重10キロに満たない、違う生き物が舞っているのだ。
ヒトは苦しまぎれになると、異世界から遣いの者が降りてきて、両脇に手をまわすと、そっと引き上げてくれるらしい。凡の者は、いいなぁ〜とおもって見ているだけなのだが……。

ゆうメシは、やっこ、ポテトサラダ、みそ汁(えのき・しめじ・にんじん・たまねぎ・あぶらあげ・とうふ)、チキンライスのオムレツ、ビール、紅茶。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Second Song

 


あめ。25℃。
6時におきる。
あさメシは、アガベシロップとヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(サニーレタス・キャベツ・たまねぎ・コーン・だいず煮・チーズ・カニカマ)、みそ汁(えのき・しめじ・にんじん・たまねぎ・あぶらあげ・とうふ)、バタートースト、紅茶。

AppleがOS群の開発者バージョン27.2のβ2をリリースしている。Spotlightで電卓機能が使えるようになったり、メールアプリのサイドバーのバグが取れたりしている。ほかにも細かい修正が散見される。

ひるメシは、ミルクをかけたシリアル、食パン。

ニール・ヤングのアルバム『Second Song』がリリースとなった。Qobuzのレビューには「今のうちに大いに喜ぼう。ニール・ヤングはまだ健在なのだから」なんて書かれていてずっこけそうになったが、とりあえずそれがトリガーとなって『Harvest』やCSN&Yの頃のアルバムも聴いている。そうそう、例の自伝『Waging Heavy Peace』が14年も前に翻訳されていたなんて。
神田をぶらついてみようか……ニール・ヤングの新譜を寿ぎつつ、とか書いても不真面目なファンであったことは隠しようもない。ヤングさん、ごめんなさい。

ゆうメシは、ワカメと卵とじのおすまし、天丼(エビ・なす・かぼちゃ・おおば・ちくわ・かき揚げ)、ルイボスティー、せんべい。

台風25号が関東沖を北上していく。暴風雨は夜におさまった。気圧が下がっている、カラダが重い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人間は知性という言葉を人間らしさで汚染している

 


くもり、のち雨。22℃。
6時におきる。
あさメシは、アガベシロップとヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(レタス・キャベツ・たまねぎ・コーン・だいず煮・チーズ・カニカマ)、みそ汁(えのき・しめじ・ズッキーニ・たまねぎ・にんじん・あぶらあげ・とうふ)、バタートースト、ルイボスティー。


『記憶するチューリップ、譲りあうヒマワリ』より長めの抜粋——


(前略)
 ある哲学の流派は、植物やその他の生物が意識を持つとみなすべきであり、それができないのは意図的な想像力の欠如のためだと主張する。もしすべての生物がわたしたちの社会に居場所を得たとしたらどうなるだろう、と彼は問う。哲学者のブルーノ・ラトゥールはかつてこう書いている。「新たな共同体に動物や植物、タンパク質を内包するためにはまず、融合のために必要になる社会的特徴を与えなければならない」。だが「社会的特徴」をこのように授ける必要はないかもしれない。植物は近親を区別できるし、共に協力したり戦ったりすることができる。自分の生活を決める植物同士やほかの生物との関係を仲裁している。おそらく、それは単なる哲学的議論ではない。社会的特徴はもう備わっている。今のわたしにはそう思える。
 この精神的な垣根を越えて存在しうる領域を想像した人々もいる。アーシュラ・K・ル・グィンの一九七四年の短編「アカシアの種子に残された文章の書き手」が描くのは、西暦二二〇〇年あるいは二三〇〇年の世界だ。そこでは人間の知識が飛躍的に進歩している。あらゆる種類の動物が言語を持っていること、さらには言語だけでなく、文学、つまり芸術も存在することがわかっている。それらを翻訳するための新たな言語学の分野が登場している。動物言語学者は入念な調査を行い、ミミズのトンネル・サーガや、イタチ語で書かれたミステリー、クジラの群れが水中を振り付けしながら躍ることで描かれる「集団演舞によるテキスト」を明らかにする。種子の置き方で表現されるアリ語など、直接人間のテキストに翻訳可能なものもある。一方で、言語で表しようのないアデリーペンギンの表現は、バレエ団が壇上で演じるのが最善の方法となる。数千匹の魚が織りなす文学が人間に知られている。カエルはとりわけポルノ好きらしい。もちろん、こうした言語はずっとそこにあったのだが、ここには重要な変化が起こっている。人間がそれを見る方法を学んだのだ。 
 だが、動物言語学者協会会長は大きな見落としがあることに注意を喚起した。なぜ植物の言葉を翻訳しようとする動物学者がいないのか? セコイアやズッキーニは何を話しているのか? 植物は世界とのまったく異なる向き合いかたをしているため、新たな道具が必要になるだろう。「だが、絶望してはならない」と会長は論文集の巻頭辞で書く。「二〇世紀半ばまで、ほとんどの科学者は、また多くの芸術家は、イルカ語が人間の脳で理解できることも、理解する価値があるものであることもわかっていなかったのだ」。会長は将来の言語学者は同じように、われわれがナス語に無関心であることをあざ笑うだろうと想像する。彼らは「リュックサックを背負って、パイクスピークの北面で新たに解読された地衣類の叙情詩を読むために坂道を登っていく」。
 わたしが興味深く思うのは、ル・グィンはこの物語を書いた時期だ。それは、ワシントン州でレッドアルダーとシトカヤナギが化学的に会話をしているというデイヴィッド・ローズの発見が発表されるわずか一〇年ほど前のことだった。わたしたちはいま、植物が化学物質で話すことを知っている。健康状態や、その時点での危険への評価、さらには花蜜の品質まで、植物から出る揮発性物質を分析することで解読できる。植物は同じ種のなかで、あるいは必要な状況では他の種とも意思疎通する。わたしたちはいつ、植物のコミュニケーションを言語であると考えるようになるだろうか? もしそう考えるようになったら、それはわたしたち自身の心にどう影響を及ぼすだろう?

ひるメシは、あたたかい蕎麦、ルイボスティー。


 おそらく植物は、動きや電気、さらには明らかに聞き取れる音を出す体内の水分の流れでも会話しているが、いずれもまだ解明されていない。ブドウや小麦にマイクを向けたリラック・ハダニーのことを考える。動物は皮膚の柄を変えることや、体を揺さぶり、毛を逆立てること、あるいは振る舞いで意思を伝えられることがわかっている。人間の表現とは異なるものを見ようとすればすぐに、他者の世界が開かれる。年を追って知識は増している。植物にとっては、言語はすでにある。わたしたちは多分まだ、その聞き方を知らないのだ。
 科学は、植物は知性を持つという結論に完全にいたることはないかもしれない。少なくとも、知性と聞いてわたしたちがすぐに思い描くような意味においては。植物に関する知識によって、これがいつか変わるだろうか。「知性」という言葉には多くの意味が込められており、おそらく学問的な達成という人間の発想と過度に結びつけらている。その言葉は人間同士のあいだで数千年にわたって武器として用いられ、人々を価値と権力の階層に分断するために使われてきた。できればわたしは、この図式を生命のその他のカテゴリーへと適用したくはない。だが知性という言葉には、まさにその定義により、めざとく、世界に目覚めている、自発的である、機敏だ、意思決定が行える、といった言葉から想起されるものの萌芽が含まれている。それは区別する、あいだから選ぶ、という意味のラテン語intellegereを語源としている。
 したがって、科学者がその言葉を植物に対して使うかどうかはわからない。理由はまさに社会的な影響だ。人間は知性という言葉を人間らしさで汚染している。だが、言葉は象徴にすぎない。それはまだ言語化されていない感覚に境界線を描く。その意味で、「知性」という言葉の境界は、植物に観察されているふるまいを記述するには狭すぎるのかもしれない。元のラテン語が持っていた、より普遍的な意味へと、境界を内から押し戻すこともできるだろう。だが、科学者たちが臆病になり、波風を立てないように願ったことによって、その言葉を使わないという社会的な合意がなされるなら、反対のことが起こる可能性もある。わたしたちはリスクを取って、それが広い理解をもたらすと期待することもできる。その意味を、過度に人間的な分類で混乱させることなく明確にすべく最善の努力をすることができる。植物の知性にあまりに人間的な色合いをつけることは思い違いなのだから。植物はそのままで活力があり、こちらが戸惑うほどに知的だ。
 言葉遣いがあまりに頻繁に問題になるため、うんざりしてしまうくらいだ。議論の中心にあるのは、人間に関する用語を用いて植物の生命を記述する擬人化の問題だ。生態学者カール・サフィナのような人々は擬人化を、人間ではない存在の経験への「第一感」だと主張する。他の存在にはものがどう見えているかという感覚を探ることで、人間ではない生命を理解する架け橋になる。古代ギリシアの哲学者で、木の中心を意味する「心材」という言葉を作ったテオプラストスが明確に主張していたことでもある。「道を探求するには、よりよく知られたものを利用するほかない」(後略)


この本が啓蒙しようとしている相手は、ボクらのような素人ではなくて、ひょっとしたら専門家たちではあるまいか。読みすすめるうちそう考えている自分に気づく。植物を擬人化してしまうことは、ボクらの言語世界が、植物の知性を表現するすべを知らないからだ。植物の全貌は、たぶん半分もわかっていない。それが貧相なコトバにあらわれている。
キャベツの千切りを作っていると、最近ではキャベツがあげている悲鳴を想像している自分におどろく。収穫されたキャベツは、ひどくにがくなっていることだろう。ほんらいの味はとても甘いということさえボクらは忘れている。

ゆうメシは、厚揚げ・さつま揚げの煮物、みそ汁(えのき・しめじ・たまねぎ・にんじん・あぶらあげ・とうふ)、ズッキーニ・ピーマン・ジャガイモのソテー・ゆでたまごをそえたドライカレー、ビール、ルイボスティー、クッキー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

虫の音

 


くもり、のち雨。23℃。
5時におきる。
あさメシは、アガベシロップとヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(レタス・キャベツ・たまねぎ・コーン・だいず煮・チーズ・カニカマ)、みそ汁(えのき・しめじ・たまねぎ・にんじん・あぶらあげ・とうふ)、バタートースト、ルイボスティー。

予約した本を取りに図書館へ。
ピーター・ゴドフリー=スミス著、夏目太訳『タコの心身問題(Other Minds The Octopus, the Sea, and the Deep Origins of Consciousuness)』(みすず書房)、ピーター・ゴドフリー=スミス著、塩崎香織訳『メタゾアの心身問題(Metazoa Animal Life and the Birth of the Mind)』(みすず書房)。

ひるメシは、コンソメスープ、パスタ・ナポリタン(ウィンナーソーセージ・ピーマン・たまねぎ・にんじん)、ルイボスティー。

夜もおそくなると虫の音が聴こえるようになった。最初は気づかなかったのだが、あるとき、とてもちかいところから聴こえるようになった。なぜだか、映画を見てると「キリ、キリ、キリ」と涼やかに鳴く。ボクはてっきり映画のなかからだとおもっていたのだが、気になってしかたない。その音だけクリアで、そもそも室内のシーンに虫の音は不釣り合いだった。
ま、それだけのことである。映画はそのうち終わり、気づくとその音も消えていた。
一昨夜、また聴こえてきた。どうやら部屋のなからしい。鉢植えのどれかからだろうか。テレビの裏かもしれない。めっきり秋めいた部屋にその音は過ぎて行った夏を惜しむようにしっとり聴こえていた。
今夜は鳴かないね、と妻が言う。ずっと待っていたけれど鳴くことはなかった。虫はどこかへいってしまったらしい。

ゆうメシは、やっこ、厚揚げとさつま揚げの煮物、みそ汁(えのき・しめじ・にんじん・たまねぎ・あぶらあげ・とうふ)、たまご丼、ルイボスティー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ボクらはホロビアントである

 

 

くもり、日射しあり。24℃。
6時におきる。
あさメシは、アガペシロップとヨーグルトをかけたバナナ、サラダ(レタス・きゅうり・たまねぎ・にんじん・コーン・だいず煮・チーズ・カニカマ)、みそ汁(えのき・しめじ・たまねぎ・にんじん・あぶらあげ・とうふ)、卵サンドウィッチ、ルイボスティー。

姉に手紙と本を送る。

妻とちょっとはなれた公園へ散歩。ひさしぶりの晴れ間、ランチを食す。あちらこちらから金木犀の香り。

公園の木のテーブルでひるメシ。コロッケ、いなり寿司、ルイボスティー。
帰りにマクドナルドで、あんことお餅の月見パイ、コーヒー。

『記憶するチューリップ、譲りあうヒマワリ』より抜粋——


(前略)
 1990年代に、先駆的な進化生物学者リン・マーギュリスが、「ホロビオント」という概念を広めた。多くの生物から成り、協調して働く複合生物のことだ。微生物叢(マイクロバイオーム)だけでなく、内部や周囲に微生物叢が棲むより大きな存在であるマクロバイオームもこの概念の一部だ。核を持つ細胞には、動物や植物にとって重要であるミトコンドリアと葉緑体も含まれる。マーギュリスの仮説によれば、有核細胞ははじめ、様々な能力を持つ微生物が集まることで生まれ、やがて融合してひとつの存在になった。これまでの科学では、時間をかけた無策の突然変異こそが全ての進化の源だとみなされてきたが、彼女はこうした異なる生物による共生が進化の歴史で重要な役割を果たしていると考えていた。細胞内共生説に関する彼女の論文は、一五の科学雑誌から拒絶されたのち、一九六七年にようやくジャーナル・オブ・セオレティカル・バイオロジー誌に掲載を許可された。この説は十年後に、近代的な遺伝子分析が可能になり、はじめてミトコンドリアや葉緑体に複数の生物に由来するDNAが確認されたことで証明された。細胞レベルで、わたしたちはみなホロビオントなのだ。
 だがマーギュリスのホロビオントという概念は、わたしたちの細胞の構造をはるかに超えて正しいことが証明された。
 成長の早さや行動など、動物にとって重要な特徴は、近年、微生物のシグナルの結果であることがわかってきた。動物は、すでに微生物によって数十億年も支配されていた世界のなかで進化したと考えると、これは納得できることだ。実際、矯正に関する著名な専門家であるマーガレット・マクフォール=ナイは、人間の免疫系には以前から独自の「記憶」があることが知られているが、それはある種のホロビオントな管理が行われていると考えている。「記憶に基づく免疫系が脊椎動物で発達したのは、有用な微生物の複雑な群集を認識し、管理する必要があったからかもしれない」と、彼女は二〇〇七年に書いている。(後略)


このくだりはちょっと飛躍している記述の一部であるけれど、その根底にあるマイクロバイオームが植物全般のコミュニケーションにふかく影響を与えていることは容易に想像できるものの、コミュニケーションにおける相関の立証までにはいたっていない。ボクらにとっては胸おどる話題であることは確かなのだけれど。

ゆうメシは、やっこ、きんぴらごぼう、コロッケ、みそ汁(えのき・しめじ・にんじん・たまねぎ・ズッキーニ)、長イモとろろ丼、ビール、ルイボスティー、焼きイモ。

Appleは、OS群の開発者バージョンを更新して、OS 27.2 β1をリリースした。いきなり0.2に飛ぶのはめずらしい。ヘルスケア・アプリの刷新や、Siri AIの対応言語の拡大(日本語もそのなかに含まれている)などが報告されている。