喉三寸

 

 

 

 

 

 

 

 

おおむね晴れ。36度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、レタス・キャベツ・大根・大豆煮・トマト・チーズ・カニカマのサラダ、味噌汁(ネギ・玉葱・人参・シメジ・油揚げ・豆腐)、チーズとハムのトーストサンドイッチ、冷たいルイボスティー。

『神々の沈黙』より――

 

(前略)この百年のことを考えてくださいとお願いすると、みなさんの多くは、時間を〈抜粋〉して年月がおそらく左から右へと順序よく並んでいる様子を思い浮かべるのではないか。しかし、当然ながら、時間には右も左もない。あるのは前か後だけであって、空間的な属性はいっさいない(もっとも、アナログによる場合は別だが)。〈空間化〉せずに時間を考えることはできない。絶対にできない。意識とはつねに〈空間化〉の過程であり、通時的なものが共時的なものに変換される。時間領域で起きたことが〈抜粋〉され、横に並べられて見られる。

 この〈空間化〉はあらゆる意識的思考の特徴だ。私のこの仮説が心に関するもろもろの仮説のどのあたりに収まるかを、今みなさんが考えていたとしよう。そうすると、まずみなさんは習慣的に自分の〈心の空間〉に「目を向ける」。そこでは、抽象的なものを「分別し」、「並べ」ておいて、「眺める」ことができる。これは、物理的には、つまり現実にはありえないことだ。次に、みなさんはこれらの仮説の具体的な比喩を作り、続いて、その時系列を共時的な比喩で捉え、さらに、仮説の性質をある程度まで物理的な比喩に変えることによって、それらの仮説を特定の順番に「並べ」られるようにする。最後に、「はめ込み」という表現上の比喩を用いる。「はめ込み」とは意識におけるアナログであり、実際にはめ込む行為はその人あるいは文化によって異なりうる。過去に事物を何らかの順番に並べた、あるいは、事物を対応する位置にはめ込んだ経験に左右されるのだ。しかし、みなさんがこの本を読みながら意識して考えていることは、すべて例外なく、このような分析によって具体的な世界における具体的な行為に起源をたどることができる。

 

昼餉は、白いロールケーキ、アイスコーヒー。

沢村貞子さんの『わたしの献立日記』の冒頭あたりにこんな文章がある。

 

 食欲というのは、ほんとにすさまじいもの、と我ながら呆れるけれど……ちょっと、いじらしいところもあるような気がする。お金や権力の欲というのは、どこまでいってもかぎりがないけれど、食欲には、ほどというものがある。人それぞれ、自分に適当な量さえとれば、それで満足するところがいい。(中略)

 おいしいものとのめぐり逢いには、運がある。ついていない人は、ほんのちょっとの手違いで折角のご馳走を食べそこなったりするのに、運のいい人は、いつでもチャンと、そいう席に坐っている。

 口運がいい、というのは、金運、女運などからきた俗語らしいが、耳ざわりのいい言葉は、口果報。昔、ご殿女中だった母方の祖母にバナナをあげたら、

「まあまあ、こんな珍しいものがいただけるなんて、口果報だね、おいしいことホホホ」

 と右手で小さい口をかくしながら、おっとり笑ったものだった。

 ことざわ大辞典の「喉三寸」の項には、

「美味を味わうのも、口から喉にかけてのわずかの間で、飲み下してしまえば皆同じである」

 と書かれている。食物のぜいたくをたしなめる意味である。そう言われれば、その通りかも知れない。

 ところが――大した暮らしでもないのに、うまいもの好きだった私の父は、それをきいて、口をとがらせた。

「冗談じゃないよ、たった喉三寸の間でしか楽しめないからこそ、なるほどと思うようなうまいものを食べるのさ。眼をつぶって飲みこむだけじゃ、人間、生きてる甲斐がないってもんだ」

 父の言い分は、なるほどとは言いかねるけれど――その血をひいているせいか、私もやっぱり、うまいものが食べたい。

 

喉三寸とはうまい言い方で、人はその短いあいだで懊悩する。僕はどちらかといえば、沢村さんのお父上とは真逆なので、その点では気楽なものだ。一方で、魯山人なんかをどこかで煙たく見ている。偉そうな奴だな、と思う奴ほど偉そうだと思う。

わざわざ引用したのは、こうやってすぐ原典に当たれるのもKindleあればこそだ。読むなら紙と決めているくせに、いざというと有り難みを求めてしまう。これも、どこか喉三寸に通じはしまいか。

夕餉は、冷奴、マカロニサラダ、鶏胸肉の唐揚げ、味噌汁(シメジ・玉葱・人参・油揚げ・豆腐・ネギ)、玄米ごはん、ウィスキー・オンザロック。食後にアイスコーヒー、ロールケーキ。