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晴れ。12度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、味噌汁仕立ての雑煮(蒲鉾・玉葱・人参・小松菜・ネギ・油揚げ・豆腐)、ルイボスティー、よもぎの小豆餡餅。食後にコーヒー。

妻は友人との茶会へ。夜に戻る。

串田孫一著『Eの糸切れたり』より――

 

 随筆「蓄音機」には興味深いことが多く書かれている。その終わりに近く、蓄音機が完成されて来るとどういう利用が考えられるようになるかが述べられている。既に音楽や演説の保存や外国語の発音の教授には用いられているが、学校の講義がこれで済ませるのではないか。「教師がふところ手をしていて、毎学年全く同じ事を陳述するだけ」なら蓄音機で代用出来ないだろうか。黒板を使う講義は活動写真と蓄音機とを連結させれば、教師は自宅で寝ていてもよし、研究室で勉強していてもいい。

 然し寺田寅彦は、教育の根本を考えるとそれを肯定する訳には行かないと言う。「その場限りの知識の商品切手のようなものになる」と言っている。ラジオやテレヴィジョンでの講義が放送大学として行われているのを知ったら、それについてどういう意見を述べただろうか。

 寧ろ彼が好ましいと思っていたのは「自然の音」のレコードである。私はSP時代に、外国の田園の、朝の情景と、教会の鐘の音や小鳥の声だけを入れているレコードを持っていた。それはテープに録音して編集出来るようになる以前のものであったから、沈黙の長い時間が途中にあり、臨場感があった。彼は恐らくこういうものを考えていたに違いない。

 「為政家が一国の政治を考究する時、社会経済学者がその学説を組み立てる時、教育者がその教案を作成する時、忘れずに少時このレコードの音に耳を傾けてもらいたい。……少なくともそれによって今の世の中がもう少し美しい平和なものになりはしまいか。」

 

百年近い昔に逝去した物理学者のエッセーをまとめていた串田孫一のエッセーもかれこれ40年くらい昔のもの。

録音技術は寺田や串田の考える使われ方を包含して発展した。だが音を量子化することでライブラリー文化が音楽の様相を変えることになるまでは想像できなかっただろう。それは無理もない。

夕餉は、きつねうどん、シャケと明太子のおにぎり、赤ワイン。食後にルイボスティー、落花生、チョコレート。

デジタル化された文化は、それを下支えした産業構造という文明まですっかり変えてしまった。街から小さな本屋やレコード屋が消えるということは、文化の諸相としてとらえられると同時に、そこに注力されていた産業が業態を変えざるを得なくなったことを意味している。

量子化が迫ったのは、たとえばラジオでニュースを読むアナウンサーの半分以上がすでにAIになっているといった不意打ちに近い。それは少しずつ入り込んでくると予想されていたことだったのに、ある日、それよりはるかに早くやってきて蹂躙して行きつつある。有無を言わさない変容として日常を変えていく。

寺田や串田の想像する仮定はどこか可愛らしい。進展の速度に人々の夢想を受け入れるような緩やかさが漂っている。

実際には、そんな緩やかさはなかった。

まさに蹂躙と言っていいような薙ぎ倒されかたが進んでいる。

蹂躙されているのだという確固たる意識を持たなければもはや立ち向かえない相手がいることにまだ気づかいフリの中で僕らは暮らしている。そういう意識で見渡さなければ、何を護らなければいけないのかわからなくなる。量子化はそういうやり口を隠し持っていることをはっきり意識したほうがいい。

Googleのお偉いさんが「レッドアラートが灯った」と警告とともに社員にメールを投げた。それくらい、新しい競争相手は強力である。Googleが登場したときのYahoo!の気持ちを今、とうのGoogleが味わっている。Yahoo!が抱いたのよりはるかに大きなインパクトをGoogleはChatGPTに感じているだろう。ChatGPTというAIサーチシステムは、もはやGoogleが古臭いと僕らが感じる知性を有している。OpenAIが開発したのは、そんな化け物だと思う。僕らはChatGPTに出会って、「なんだ、欲しかったのはこんなのだよ」と思うだろう(少なくとも僕はそう感じた)。

メインのプレーヤーさえ蹂躙されていく。僕らが開けたのは、安息なき日々へと続く扉なのだと断言しても今さらだけれど。