晴れ。9度。
7時に起きる。
朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、味噌味の雑煮(玉葱・人参・ネギ・小松菜・油揚げ・豆腐・キャベツ)、ルイボスティー。
レヴィ=ストロース『月の裏側』より――
西洋の哲学者たちは、東洋の思想と彼らの思想との間に、二つの主要な差異があると考えています。彼らの目には、東洋の思想は二つの拒否によって特徴づけられます。まず、主体の拒否。ヒンドゥー教、道教、仏教とさまざまな形をとってはいますが、西洋にとって第一の明証である「私」が、幻想であることを示そうとします。これらの教義にとっては、各々の存在は生物的で心理的な現象のかりそめの寄せ集めにすぎず、一つの「自己」という持続的要素は持っていません。虚しい見せかけでしかなく、いずれは必ずばらばらになってしまうのです。
第二の拒否は、言説の拒否です。ギリシャ人以来、西洋は、言葉を理性のために用いれば、人は世界を理解できると信じてきました。しっかりと構成された言説は現実と一致し、事物の秩序に到達し、それを忠実に表現できると考えたのです。反対に、東洋的な考え方では、どんな言葉も現実とは一致しないのです。世界の、最終的な本質――こんな言い方に意味があるとすればですが――は、我々には捉えることができません。それは、我々の思考と表現の能力を超越したものです。それについて何も知ることができないのですから、何も言うことができません。
この二つの拒否に対して、日本はまったく独自のやり方で反応しました。主体に対して、日本は確かに、西洋に比べれば大きな重要性は与えていません。日本人はあらゆる哲学的省察、つまり思考による世界の再構築という企てに不可欠な出発点が、主体であるとは考えないのです。デカルトの「われ思うゆえにわれあり」は、厳密には日本語に翻訳不可能であるとさえ言えます。
けれども日本人の思考は、この主体を消滅させてしまったようにも思えません。主体は原因ではなく一つの結果にするのです。主体に関して西洋哲学は遠心的です。すべてが、そこから発します。日本的思考が主体を思い描くやり方は、むしろ求心的であるように思われます。日本語の統辞法が、一般的なものから特殊なものへ限定することによって文章を構成するのと同じく、日本人の思考は、主体を最後に置きます。これは、よりせまい社会的、職業的グループが互いにぴったりとはまりこんでいる結果生じるのです。このようにして、主体は一つの実体となります。つまり、自らの帰属を映し出す、最終的な場となるのです。
主体を外側から構築するやり方は、人称代名詞を避ける傾向のある言語にも、社会構造にも、見られます。社会構造では「自我意識」――日本語にはjigaishiというのだと思いますが――が、どんな些細なことであれ、一人一人が集団的な仕事に参加しているという感情によって、またその感情のなかで表現されます。中国生まれの汎用鋸やさまざまな型の鉋にしても、六、七世紀前に日本に取り入れられると、使い方が逆になりました。職人は、道具を前に向かって押すかわりに自分の方へ引くのです。物質に働きかける行為の出発点ではなく到達点に身を置きますが、これは家族、職業集団、地理的環境、そしてさらに広げれば国や社会における地位によって外側から自分を規定する根強い傾向を示します。日本は手袋を裏返すように主体の拒否をひっくり返したのです。そして、この否定から肯定的な結果を引き出し、そこに社会構造の力学的原理を見出しました。この原理は三つのものから日本の社会構造を守りました。すなわち「東洋の宗教による形而上学の放棄」「儒教が引き起こす社会の停滞」「自己の優位によって西洋社会が晒されている原子論」。
第二の拒否に対する日本の答えは、これとは違った種類のものです。日本は思考体系の完全な転換を果たしています。西洋が他の思考体系に対抗するものとして提示したものから、日本は自分に合うものを取り、残りを遠ざけたのです。ギリシャ人が了解していた意味での「ロゴス」、つまり理にかなった真実と世界との一致を、十把一からげに拒否することなどはせず、日本ははっきりと、科学的認識の側に立ち、今やその最前線にあるのです。けれども、二十世紀の前半に日本をとらえた思想上の混乱のために、多大な犠牲を払ったのち、日本は自己を取り戻し、体系的精神によって西洋世界が時折おちいってしまう「ロゴス」の堕落――これが第三世界の国々に荒廃をもたらしています――を嫌っています。
昼餉は、散歩がてら街の洋食屋へ。男爵芋のコロッケとハンバーグの定食、食後にコーヒー。
めっきりご無沙汰のデパートはすっかり様変わりして、登山道具の店が入っていた。
ドーナッツ屋でオールドファッションとミルクティー。
夕餉は、小松菜と蒲鉾をそえた温かい蕎麦、赤ワイン。食後に焙じ茶、落花生。
AppleはOS群のパブリックベータ・プログラムを更新してRCをリリースした。macOS 13.2とiOS 16.3をインストール。
レヴィ=ストロースは誤認識をしている部分があるにしても、その広範な知見をもって洋の東西を対比しながら、日本独特の思考とか物事の捉え方を巧みに解いている。
文化人類学者が日本文化を読み解くために費やした時間は、僕たちが自分たちの文化を読み解くために費やした時間とは比べようもない膨大なものだ。僕らが誤認識をしている部分や未踏の知を掘り起こす熱情はどこから来るのだろう。