ユーラシア大陸の両端で

 

 

 

 

 

 

 

おおむね晴れ。11度。

7時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたバナナ、キャベツ・大根・ゴーダチーズ・ひよこ豆・アオサのサラダ、味噌汁(ジャガイモ・玉葱・人参・キャベツ・油揚げ・豆腐)、卵焼きとハムのトーストサンドイッチ、ルイボスティー。

レヴィ=ストロース著『月の裏側』より――

 

 西洋世界では、生活のスタイルや生産様式が、次から次へと変わります。日本では、それらは共存するといってよいかもしれません。けれども、それらのものは、我々西洋のものと、根本的に違うのでしょうか。私が日本の古典を読むとき、空間よりも時間的な隔たりを強く感じるのです。『源氏物語』は、フランスではようやく七世紀のちになって、ジャン=ジャック・ルソーの物語風の作品によって登場した文学の様式を、先取りしています。筋の展開はゆるやかで、錯綜し、微妙な変化に富み、人生でもしばしばそうであるように、登場人物の深い動機は我々にはわかりません。微細な心理描写に満ち、自然への感情とともに、物事の定めなさと命のはかなさへの感情も重視されている、メランコリックな叙情性に浸っています。

 日本の偉大な歴史年代記である『保元物語』『平治物語』『平家物語』には、また別の隔たりがあります。大きな悲壮感にみちたこれらの作品は、現代風にいうところの「大ルポルタージュ」であると同時に、叙事詩でもあります。数多くの章の最後に、たとえば『平家物語』巻第二に描かれた、仏教の衰退、手写の経典に黴が生え、寺の建物が荒れ放題になるくだり、あるいは巻第七の終わりの、平家一族の福原落ちのように、偉大な抒情詩的昂揚に向かって窓が開かれるのです。私たちの文学で、これに匹敵するものを求めるとすれば、ようやく十九世紀になってからの、シャトーブリアンの『墓の彼方からの回想』くらいでしょう。

 さらに、近松、出雲、松洛、千柳、南北が、文楽のために書いた戯曲や、その歌舞伎に脚色されたものを読むと、私はその豊かさ、筋立ての巧みさ、メロドラマと詩の結合、庶民生活の情景に融合した英雄的感情の描出に、すっかり魅惑されてしまいます。私たちの演劇でそれに近いものといえば、一八九七年になって上演されたエドモン・ロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』を、どうやら挙げられるくらいです。(中略)

 これがすべてではありません。日本文化の明敏さは、極めて論理的なやり方で、必ずしも日本で生まれたのではない神話の主題――世界の神話の諸要素全体が、日本に認められるという点で――をつなぎ合わせましたが、それと同様に、日本の古い文学は、一般的な社会学的問題の解明に、役立てることができるのです。二年前に『はるかなる視線』という題で日本語訳が出た本で私は、当時の諸制度にあれだけ鋭い視線を投げかけ、登場人物の動機をあれほど綿密に分析している『源氏物語』のような物語作品や『栄花物語』や『大鏡』のような歴史物語や年代記によって、社会学者や民族学者に提起されてきた古典的な大問題が、完全に一新されうることを示そうと試みました。私が考えているのは、人類学者が「交叉イトコ婚」と呼ぶイトコ(性が異なるキョウダイの子であるイトコ)同士の婚姻や、明らかな父系制社会における母系親族の役割についてです。日本の事例は、アフリカやアメリカ北西部の遠く離れた社会組織に関して、民族学者を長いこと悩ませてきた疑問を解明するのに、貴重な助けをもたらしてくれます。

 

昼餉は、甘酒。

レヴィ=ストロースはこのあとの文章で、さらに日本文化のある種の原初性に触れ、ユーラシア大陸を両端に位置するフランスとの関係性を考察している。

夕餉は、佃煮、納豆、高野豆腐煮、焼き鮭、味噌汁(人参・玉葱・ネギ・小松菜・白菜・油揚げ・豆腐)、玄米ご飯、赤ワイン。食後に焙じ茶、歌舞伎揚げ。