椅子を眺めること

 

 

 

 

 

 

 

晴れ。7度。

7時に起きる。

朝餉は、キャベツ・梅肉・ゴーダチーズ・ひよこ豆のサラダ、味噌汁(玉葱・人参・小松菜・キャベツ・油揚げ・豆腐)、玉葱とハムのピザトースト、ルイボスティー。食後にコーヒー。

椅子が届く。宮崎椅子製作所のかねてから欲しかったものを安く譲っていただいた。

どこをとっても無言になる。座面の裏側の曲面にさえ見入ってしまう。すべての曲面を撫でて、座って、遠くを眺める、手元の本を開く――。

宮崎椅子製作所は徳島県鳴門市にある工房で、僕はここの椅子が気に入っている。家具屋ではなく、椅子屋である。徳島ということで、ただでさえめんどくさいのに。値段を知れば二の足を踏む。それは請け合う。

だからなんだというのだ、と宮崎椅子製作所は言いたげだ。座れば、それがわかる。座った人は多かれ少なかれ、彼らが椅子製作所であることを刻みつける。

昼餉は、醤油ラーメン、ずんだ団子。

座ることも大事だが、まずは眺める。眺めているうちに目が育っていく。目は、日々、佳き物から得られる養分を渇望している。目の養分は言葉の届かないところに蓄えられる。

蜜蝋で潤っているローズウッドの色と肌理、座面のわずかな窪みが作る陰影、接合の組みつけによる荷重の分散、背から脚もとへ流れて落ちるわずかな曲線、厚みと細身の均衡。

眺めているうちに、目はさまざまなことをため込んでいく。それがどこに仕舞われているのか、僕にはわからない。それが放出される瞬間はあるのか、それもわからない。

眺めることは、見ることとはちょっと違うような気がする。具体的なことはわからない。だから、ぼんやり眺めるしかない。

凝視することはない。ただぼんやりする。

うまく言えないが、ぼんやりすることは間違わないためなのだと思う。それでもどうせ間違うので、ぼんやりはしょせんぼんやりなのだとあきらめる。そこからのぼんやりが目にはいいのだ。

今日のぼんやりになった宮崎椅子製作所の椅子は、僕がずっと欲しかった物なので、五感が好意的だ。ぼんやりの大事な要件だと思う。

好意的な五感。

暮らしは決して好意的なことばかりではない。というよりも、好意的な五感は滅多に訪れない。そこが、ぼんやりを困難にする。

夕餉は、豆腐、白菜・鶏肉団子・人参・焼き豆腐の中華鍋、玄米ご飯、赤ワイン。食後に焙じ茶、クッキー。

ぼんやりばかりだと、それはもはやぼんやりにならない。

そういうこともある。