象に関するお接待

 

 

 

 

 

 

 

雨、のち曇り。24度。

7時に起きる。

朝餉は、リンゴジャムとヨーグルトをかけたバナナ、キャベツを添えた目玉焼きとハム、味噌汁(玉葱・人参・油揚げ・豆腐・ネギ)、バタートースト、ミルク。食後にコーヒー。

 

カプシチンスキ著『黒檀』より抜粋――

 

 象がどうやって最期を遂げるか、現地人はちゃんと知っていた。ただし、それは白人には明かさず、長い間、秘密にしてきた。現地人にとって、象は神聖な動物であり、その死もまた神聖だ。すべて神聖なるものは、厳重な秘密に包み込む。世の中で象ほど無敵な動物はいない。だから、畏怖をもって遇される。象を打ち負かすものは存在しない。だから、象の最期は自然死しかない。では、どんな時、どこが死場所となるのか。それは、黄昏時の水辺である。沼、池、湖、川――その岸辺に立って、普通の象ならば、長い鼻を遠くに伸ばして水を飲む。だが、老い衰えた象は、もはや重たい鼻を持ち上げる力がない。喉の渇きを癒すため、沼や池にずんずんとは入って行く。水底の泥の深みに脚を取られて、老象は沈み始める。初めのうちこそ身を守ろうと暴れる。底の泥から抜け出し、岸へ戻ろうとする。けれども、象の巨体はそれを許さない。泥底の吸引力にからめ取られ、そのうちに象はバランスを失ってどっと倒れてしまう。巨体は、永遠に水底へと消える。

 われわれの湖沼の底には、太古からの象の墓地があるのです」と、ドクター・パテルは話を締めくくった。

 

ははぁ、と読みながら思う。この寓話には、ダルエスサラームあたりの露天で売られているマサイ族の偶像に似たニオイがする。現地人はそうした土産物には見向きもしない。

象の鼻は足元の水を巧みに飲む。セレンゲティでは、多くの池や沼は象たちの土遊びによって作られる。そこに沈むというのはずいぶんロマンチックである。底が泥ではない川や湖もあろう。水場を墓場に選ぶのは老象に限った話ではない。

現地人が密かに守ってきた話というが、現に白人の知るところとなっている。それも白々しい。象たちが拵えた沼や池は、乾季ともなれば干上がる。そこに象の骨が見つかるのか。

この話には、白人をもてなそうという微かなお接待が盛り込まれている。饗応されたドクター・パテルの孫引きは美しいけれど、その部分は作為である。すべての美しさがそうであるように。

それを嗅ぎ取る筆者の洞察は、自然に関する限りどこにも見当たらない。

 

妻の作った夕餉は、ナス・万願寺とうがらし・玉葱・人参・ジャガイモのツナカレー、野菜のコンソメスープ、ウィスキー・オンザロック。