唯一にして絶対か?

 

 

 

 

 

 

おおむね晴れ、夜に雨。29度。

7時に起きる。

朝餉は、ヨーグルトと蜂蜜をかけたバナナ、キャベツ・トマト・キュウリのサラダ、味噌汁(小松菜・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、卵サンドイッチ、ミルク。食後にコーヒー。

 

リシャルト・カプシチンスキ著『黒檀』より抜粋――

 

 時間は、われわれの行動の結果として顕在化する。そして、行動を中止するか、または行動に取りかからないとき、時間は消失する。時間というのは、物質であって、人間の影響下で、いつでも活気を取り戻すことが可能となる。ただし、われわれが時間に対して、こちらのエネルギーを分与しなければ、それは冬眠状態に陥るか、あるいは、無に帰しさえする。時間は、受身で受動的な実体であって、なによりもまず、人間に依存しているものである。

 ヨーロッパ的な考え方とは、雲泥の差、正反対だ。

 以上のアフリカ式時間の概念を、実際の状況に当てはめてみよう。ある村で政治集会が午後に開かれると聞いて、そこに車で乗りつける。集会の場所に行っても、人っ子ひとりいないとする。その場合、「集会は、いつですか」と訊ねるのは、ナンセンスだ。答えは初めから知れている。「みんなが集まった時ですよ」

 

カプシチンスキの言説は明解だ。「ヨーロッパ人は、自らを時間の奴隷と感じており、時間に従属し、時間の家来だ」という。「存在し、機能するために、彼は、時間の侵しがたい鉄則に従い、その強固な原則や規則を守らねばならない」と。

ヨーロッパ人に限らない。文明人はみんなこのルール(というか鉄則)に生きている。なぜか? 答えは簡単だ。ルールこそ、文明そのものだから。そして、ルールの第一は、時間は唯一絶対で、いかなる者に対しても平等に降り注ぎ、神の上に位置する存在ということだ。

一方のアフリカ人は、そんなふうに物事を考えたこともない。

当時はそうだとして、今もアフリカ人は真逆の考えで暮らしているだろうか。

言うまでもないことだが、アフリカ人の時間概念は、まことに正しい。時間は僕らが作り出した概念装置そのもので、外界はそれと隔絶されているという捉え方こそ真実だ。不慣れな僕らは、大真面目にそう言われると狐につままれた顔になるが、昔はすべてのヒトがそうだったことを忘れてはなるまい。

妻の作った夕餉は、ナス・ピーマン・サツマイモのソテーを添えたハンバーグ、味噌汁(玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、玄米ご飯、ウィスキー・オンザロック。

Appleは、iOS 16のパブリックベータ・プログラムを更新してβ1をリリースした。iPhone12や13のバッテリー残量が数字でやっと表示される。

冗談のようなリリースだが、これも21世紀のリリースだ。

キーアサインソフトのKarabiner-ElementsがmacOSの動作を不安定にしている。アンインストールしたら、Bluetoothの挙動が戻る。