敬虔という擬態

 

 

 

 

 

 

 

曇り、のち晴れ。28度。

7時に起きる。

朝餉は、ヨーグルトとリンゴジャムをかけたバナナ、キャベツの千切りを添えたハム・目玉焼き、味噌汁(小松菜・サツマイモ・玉葱・人参・油揚げ・豆腐)、バタートースト、豆乳。食後にコーヒー。

 

どれだけ愉しいことをしているのか――僕らの脳は欲張りなので、愉しみが続くとそれが当たり前だと感じてしまう。同じ愉しみなのに、足りないと感じる。もっと強い愉しみを求めて彷徨う。

経済の基本は、このとめどない欲望に依拠している。短い時間で済ませたいとか、もう少し便利にしたいとか、煩わしさを改善したいとか、やりたいことに限られた時間を使いたいとか――欲望は巧妙な姿をまとっている。

経済の基本は、奥底にある欲望に衣を着せて、目的が崇高であるかのように錯覚させることでもある。もっと便利に、もっと短時間に、と突き進んでいくことが叡智を拓く行為に直結している。そう思わせる。

欲望を満たすものでない目的は、ヒトの世には存在していない。真の欲望ほど、欲望からもっとも遠くに存在しているような素知らぬ顔をして輝いている。

神の祝福を得たい、平安に暮らせるような世であってほしい――欲望のもっとも巧妙な擬態がここにある。神仏に手を合わせて、何かを願う。断るまでもないけれど、神仏とは、ヒトの欲望が作り出した欲望の化身だ。

僕らは、そうまでして欲望を満たす。大きな理屈は哲学と言われるけれど、なぜヒトは生きるのか、という命題に正面から取り組むことは、欲望の実体を露わにすることにつながっている。

欲を捨てなさい、という教理を持たない宗教はない。宗教という欲望は、それ以外の欲望を統御するようにヒトを導こうとする。ヒトが考え出したもっとも巧妙な欲望なのだと思う。

壺や指輪を買えば呪いが消えるなどというパンクな宗教は、宗教全般から言わせれば、ずいぶんキッチュなレベルにある。そして、キッチュであろうと、それが宗教の本来の顔であることを教えてくれる。

ご本尊を拝む、礼拝をする、賽銭を投じる、お守りを求める、金銭を包む。

それなのに、税金は免除されている。宗教は純経済の行いだと思う。

 

夕餉は、冷奴、厚揚げ・ピーマン・ナスの南蛮漬け、鯖の味噌煮、味噌汁(玉葱・人参・小松菜・カボチャ・油揚げ・豆腐)、玄米ご飯、ウィスキー・オンザロック。