消え去る時間

 

 

 

 

 

 

 

晴れたり曇ったり。30度。

窓を開け放して寝ていると、虫の声。

7時に起きる。

朝餉は、リンゴジャムとヨーグルトをかけたバナナ、味噌汁(玉葱・人参・サツマイモ・油揚げ・小松菜)、ピザトースト、豆乳。食後にコーヒー。

妻はクワイアの稽古へ。夜に戻る。

ジョギング、8.68キロメートル。汗だく。

暑い日に限って、百日紅の花が目につく。ハナミズキの赤い実が街路に目立ちはじめた。

 

年寄りの感情には、びくともしない不感症が積み重なっている。それはまるで古生代からの分厚い地層のようだ。よほど大きな地震とか地殻変動がないかぎり、涙腺は緩まない。相貌を崩したりしない。

干からびて、びくともしない地層にまで届く雨水はすでにない。それでも年寄りは、さまざまなものを見たり聞いたり読んだり触れたりする。揺さぶられたいのだ。それが生の証だから。

誤解されがちだが、年寄りは生まれた時から年寄りだったわけではない。たっぷりの水を湛え、四季の空模様を水面に映す湖を持ち合わせていたのだ。

 

ひとりの夕餉は、シャケと炊き込みご飯のおにぎり、シリアル、ウィスキー・オンザロック。

 

だが不思議なことに、当の年寄りが自分にもあったみずみずしさをいつしか忘れる。忘れるというより、最初から年寄りだったと悟る。老いとは、すべてを消し去ってしまう地道な作業のことを指すのかもしれない。

なんと残酷なことか、と思ったのは老いる前のことだ。老いてわかるのは、いつまでも記憶に残る残酷さのほうだ。消し去られて、やっと平穏を得る。

残照の日々に一生を振り返るような、懐古の時間が年寄りには贈り物として差し出される――小説や回顧録に書かれている回想の場面のいかに陳腐なことか。

悔恨に苛まれることばかりの日々から逃れる方法はない。あるのは、地道に消し去られていくという幸福の作業だけである。

若者よ、安心しなさい。あなたの犯したことは、じき消えていく。残されるのは、なにもかもが無くなった空白のあなたである。