手中にない物理原理の存在

 

 

 

 

 

 

 

雨、のち曇り。23度。

7時に起きる。

朝餉は、キャベツと卵の中華炒め、味噌汁(玉葱・人参・カボチャ・オクラ・油揚げ・豆腐)、フレンチトースト、ヨーグルトのバナナジュース。食後にコーヒー。

NHKの将棋と囲碁トーナメント。どちらの対局も土壇場で逆転。下駄を履くまでわからない、を地で行く。

両対局ともポカがあった。特に囲碁は半目勝負だったのを、結城聡9段が解説途中で「先手は今の手で2目、損をしたと思います」と言ったとおり、結果は2目半差だった。解説者の計算にも脱帽。大石を召し取るのも囲碁の醍醐味だが、半目差で勝つ今日の佐田篤史7段の凄み。

囲碁の半目勝負だけは、ほかにしっくりくる表現が見つからない。一目のその半分の手。それを勝負の最中に計算できる凄み。その緊迫にふさわしい言葉があるだろうか。

 

昨日のクルマの続きを――

幼い心にも、内燃機関のだらしなさはすぐわかった。そんな無駄な消尽をしていれば、早晩しっぺ返しがくることくらい感覚でわかった。そういうことは子どもの方が素早く察知するかもしれない。大人に対する根深い不信感は、すべての子供にある、と僕は思う。ヒトが社会化していくにともなって、それがどう緩和されるのか。それとも、ずっと残り続けるのか。そのあたりのことはわからない。

内燃機関の仕組みを知る以前、動力の原理は超伝導のようなある種の超効率性がしっかりあって、それが司っているのだと思っていた。そういう仕組みを大人は営々と作りあげており、それが社会を動かしている。どこかでそう信じていた。僕もいつの日か、その原理に触れる日が来る。大人になるのは、それを知る日なのだと。

あれほどの速度でクルマが動くのは、それくらいの原理に依っていなければおかしい。そうどこかで信じていた。だから、内燃機関に裏切られた時のショックは大きかった。

レンジローバーに乗り続けたのは、ある種の反骨のようなものだったかもしれない。過酷な大地を走るクルマは、野蛮を克服するある種の野蛮の権化だったわけで、レンジローバーが体現しているのは、そのものずばりだった。

エレガントなカタチを纏った野蛮。

意識してはいなかったけれど、そんなことをあのクルマに投影していたのだと思う。

内燃機関のだらしなさは、僕がもっとも忌み嫌うものとしてあり続けている。クルマの電気化がやっと動き出しているけれど、すべての内燃機関が電気化するために要するエネルギーの経済的置換を想像するだけで気が遠のく。

ヒトが払ったツケは、とてつもなく大きい。

夕餉は、厚揚げとキャベツのサラダ、チキンカレーの残り、ビール、ウィスキー・オンザロック。

涼しい風が吹く。久しぶりに2階のベッドへ。手足を伸ばす。