信頼性の提示手法

 

 

 

 

 

曇り、のちパラつく。24度。

6時に起きる。

朝餉は、蜂蜜とヨーグルトをかけたメロン・バナナ、柘榴酢ジュース、豆乳、コーヒー。

妻はクワイアのシルバーグループの面倒見と稽古へ。

映画は、ドゥニ・ビルヌーブ監督の『DUNE』。フランク・ハーバートの原作を映像化したら、こんな感じかと。『Star Wars』に似ているという人は、歴史認識が逆転している。物語の描写は途中に澱みがあるものの、原作をうまく捉えている。テーマの中核をなす砂漠表現は『アラビアのロレンス』に通底する茫漠とした美しさを目指していることがわかる。砂漠は、どう転んでも美しいのだ(だから、表現がむずかしい)。

パースペクティブの描写に息を呑む瞬間が何度かある。A0サイズに印刷して額装しても鑑賞に耐えるかもしれない(見てみたいと思わせる)。

新しいSF大作の幕開けとして寿ぐべきだろうが、道具立てにこのシリーズならではの支柱というか刻印が、見終わったあとに何も残らない。そのことに驚く。意地悪な言い方をすれば、剽窃の一大絵巻を見せられたという感じかもしれない。それが立派なものなら、剽窃のどこが恥ずべきかとも思う。

それでも強いて言えば、最後に残るのは、パースペクティブへの憧憬ということなのだろうか。

中世の宗教絵画の背景、煙に霞む風景の水墨画を見ればわかる。いかなる意味においても、背景に用いるパースペクティブは神への近接に対する探究と密に繋がっている。

昼餉は、シリアル、豆乳。

ATOK Passportにおける前世紀感について考え続けている。使えばわかる、という暗黙知への信頼が今世紀へのとば口だとしたら(そのことの良し悪しは別の議論だ)、それを新機能として事細かに説明しようとしたり、その機能をオン・オフできる選択肢を用意することで、今世紀の根底を構築することへの嫌疑を標榜しているように見えてしまう。ないしは、そういう潮流があることに頓着していないか感知していない。だから、無神経に見えてしまう。細やかな神経があると思わせつつ、実はそのこと自体が無神経に見える。もっと悪いことに、次のステージを提示できていない。それは、知性の欠如に見える。

使ってすぐわかることが、結局、信頼へとつながる。そういう信頼性がAI手法としてあることをユーザーに伝える。そのことが、信頼という関係性を提示するもっとも賢明な方法だという諦観は今世紀になってもっとも明確になった手法の一つだ。だが、ATOKにつきまとっているのは、その方法論の欠落だと思う。

それはこの国の工業的な癖になっているような気がしてならない。

説明をすればするほど、疎んじられる。怪しまれる。説明は、言い訳と同義かもしれない。

夕餉は、キャベツ・トマト・玉葱のサラダ、イカリング揚げ、焼きシャケ、味噌汁(油揚げ・豆腐・シメジ・玉葱・人参・キャベツ)、玄米ご飯、ウィスキー・オンザロック。食後に歌舞伎揚、チョコアイス。

妻の乗った電車が前の駅で人身事故に遭う。救急車のサイレンがここまで聞こえる。小一時間ほどの遅れ。

参議院選挙が公示された。Patagoniaが「私たちの地球のために投票しよう」というメールキャンペーンを始めている。