革命もどきと宗教

 

 

 

 

 

 

晴れ、のち曇り。パラつく。24度。

6時に起きる。

冷たいほうじ茶、コーヒー。

映画は豊島圭介監督『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』。

TBSが収蔵していた討論会のビデオを中心にして、参加者や視聴した作家たちへのインタビューを織り込んでいる。討論会の全貌はわからずじまい。インタビューも中途半端だが、それこそ当時の縮図かもしれない。

安保闘争からの革命熱が学生や社会に何を遺したのか。当時の社会が孕んでいた熱は、太平洋戦争へと突っ込んでいった時の国民の熱とどこかで通じている。

三島由紀夫と東大全共闘の討論会は、何かを語りあったというだけに終始している。その何かは、何かとしか言いようのない、今となっては陳腐な言葉の羅列で終わる。哲学的でありたいと願っても、それが討論の神に聞き届けられた形跡はない。それは、大人対子供という縮図でもある。どちらが大人で子供だったかというより、連綿と続く過去と今ということかもしれない。

一方で、この映画の三島由紀夫を見るという行為は、作家の死がすべての自死のイコンとして刻まれていることを確認することなのかもしれない。割腹したその死は、宙にぽっかり浮かんだままであり続けている。

当時からすれば、さも成熟したかのような今の社会は、年齢構成がそうなって見えるということも相俟って、腐敗臭だけが鼻につく。

昼餉は、バナナ、レーズン・バゲット、ずんだ餅、豆乳、コーヒー。

この国の栄華は、国体を揺るがす変革やら大戦を挟んで、それでも300年以上続いた。国民が半分になっていくのは、文字どおりの終焉なのだと思う。

夕餉は、冷奴、ハヤシカレーの残り、ウイスキーオンザロック、コーヒー。

映画は、トム・マッカーシー監督『スポットライト 世紀のスクープ(原題:Spotlight)』。

米紙The Boston Globeのスクープ記事がベースになっている。カトリック神父による児童への性的虐待という問題は、この記事によって世界的な広がりを見せた。事実を隠し続けてきたバチカンが、その実態を認めるまでになったのは記憶に新しい。

この問題を取り上げる発端となった新任の編集局長の人となりが描ききれていないのが残念だ。

地味で動きのない映画がアカデミー賞作品賞を取ったのは、この問題に対するアメリカ人の衝撃の深さを物語っているとともに、忘れられがちな調査報道と衰退の一途をたどる新聞への共感が基底にある。

神父の6パーセントが小児性愛者だとしたら、それは社会の縮図と言っていい。よもや宗教界だけは例外という、淡い期待はどこにもないどころか、その割合は社会のそれより少し高いくらいだ。