遅い早いではない

 

おおむね晴れ。13度。

7時に起きる。

朝餉は、きんぴら、グリーンレタスとポテトサラダ、ベーコン、スクランブルエッグ、味噌汁(大根・人参・ネギ・豆腐・油揚げ)、トースト、バナナ、紅茶。

姉から電話。父方の従兄弟が亡くなったと。父の葬儀で言葉を交わしてから3ヶ月ほど。元気そうだったのに。通夜に出る姉に、香典と献花を託す。

ジョギング、13.13キロ。10キロを過ぎたあたりで尿意。

昼餉は、豆乳をかけたシリアル、コーヒー。

道具とか材料ではない。走ることも料理も、ほかのすべてのことも、答えは外にはない。遠回りして、そのことに気づくために、さまざまなモノを買い、サービスを受ける。でも、そこに答えはない。

詰まるところ、すこしの積み重ねを連ねていくしかないのだとわかるのは、それほど愉しいことではない。だが、ひとたび愉しさを見いだすことができれば、積み重ねてきた時間が今度は祝福になる。

内なる声を聞き取れる耳は、まるで贈り物のようだ。声といえばわかりやすいが、実際には声など聞こえない。僕らは、ずっと後になってから、そんな声でも聞こえていたかのように感じる。導かれていたとしか思えないような錯覚に陥る。

小さなことをコツコツやる。ただそれだけが、扉を開く鍵なのだと気づく。その力がどこから来ているのか、さまざまなヒントが先人によって残されているのに、気づくときは己の言葉があったかのように思う。不思議なことだ。

夕餉は、きんぴら、ポテトサラダ、妻の作ったクリームシチュー。食後に紅茶、抹茶のどら焼き。

何かに取り組もうと思ったら、物事をバラバラにして切片を選び、それを積み重ねることを考える。なにかを得るには、それしかないのだとこの歳になってやっと思う。