晴れ、のち曇り。19度。
8時に起きる。
朝餉は、大根・サニーレタス・大豆煮・カニカマのサラダ、メンチカツの残り、りんごパイ、ルイボスティ。食後にコーヒー。
施設もできて、準備はおおかた終わっていた。1年後に伸びたが、オリンピックが開催されるか誰にもわからない。
’64年の時を思い起こしながら、この国の歳の取り方を、つい自分に重ねてしまう。
最初に招致を言い出した元都知事は、ここらで元気を出そうじゃありませんか、という主旨のことを語った。彼も、’64年が頭にあったと思う。僕らはずっと、当時に引っ張られっぱなしで来たような気がする。
’64年は突貫工事の間に合わせで、なんとか格好つけたものの、都市計画という点ではひどいものだった。今、間に合わせ工事のツケを払っていることを僕らはあまり話題にしない。
’64年は、戦後復興の融資を受けている最中で、子どもたちの給食も米国の救済を受けていた。できる背伸びはすべてやったうえで、まだ足りなかったのに、あのオリンピックは開催された。
当時はともかく、今度は、なぜオリンピックなのか。元都知事は、そのことを満足に説明できなかった。見せかけの威勢は、彼の心の弱さを物語る名刺みたいなもので、誰もが、あぁまたか、と思ったはずである。あれよあれよという間に決まったという点で、今も昔も同じような気がする。
IOCは、今年中に来年開催の可否に決着をつけたいという。この時期だから、来年についても悲観する人が多いかもしれない。
相変わらず、都市計画らしいものがなにもない状態で箱物が出来上がってしまった東京を見ていると、僕らは、どういうことを学んだのかな、と思う。
昼餉は、妻の作ったかき揚げ蕎麦。
ある日、元都知事の電話が鳴って、IOCは嘆願した。
どこの国も、オリンピックどころじゃないと言っている。このままでは2020年は中止かもしれない。ついては、東京に立候補してもらえないだろうか。ちゃんと当て馬は用意する。ぜひ、お願いしたい。
そして、貧乏くじは引かれた。
僕はずっと、そんなことを空想していた。
東京が提案した計画は、それくらいひどいものだった。
夕餉は、キュウリとワカメ・竹輪の酢の物、切り干し大根煮、厚揚げと小松菜の生姜炒め、味噌汁(大根・人参・玉葱・小松菜・エノキ・豆腐)、シャケご飯、ビール。