口のない自画像のこと

 

晴れ、のち曇り。16度。

8時に起きる。

朝餉は、カボチャのいとこ煮、大根・サニーレタス・カニカマ・竹輪・梅漬けのサラダ、さつま揚げと目玉焼き、味噌汁(人参・玉葱・小松菜・エノキ・大根の葉・豆腐)、トースト、アールグレイ。食後に、コーヒー。

言語は、いつ、どこで生まれたのか。どうやって生み出し、育み、体系化したのか。

それが、現在の科学ではまったくわかっていない。言語の発芽には、信じられないくらいの説が存在している。

「僕らは何者なのか?」という問いは、その問いの内包している言語構造が、強固な社会体系の上に成り立っている。極端だが、平原のような疎の場所では、その体系化が弱くなる。

では、言語が生まれる社会基盤の絶対条件はなんだろう。そのあたりから諸説は沸騰するし、その前段階からすでに沸騰している。

言語をめぐる議論は、徹頭徹尾、沸騰している。

僕らの存在は、言語そのものだ。だからこそ、わからないままでいることが釈然としない。

沸騰するのは、ほんとうにわかっていないからだ。仮説らしい仮説さえ、まだないと言っていい。科学的根拠のない状態が続いているのだ。

昼餉は、女房が作った小豆あんを小さなホットケーキを焼いて挟んで、どら焼きを2個ずつ、お抹茶。

言語と意識は、表裏の関係と言ってもいい。意識は、言語化された感情の諸相といっていい。僕らが、意識を持ったのはいつ、どこでなのか。どれくらい前に、僕らは、自分という存在を客観的に捉えることを発見したのか。

「こんなことを考えてしまう、僕という存在はなんなのだろう?」

意識の実体は、このカギ括弧の中に、手に取れる具体的な言語のカタチとして示すことができる。なのに、それが芽生えた時期を、僕らは知らないのだ。

夕餉は、大根・人参・厚揚げ・サヤインゲンの煮物、鳥ササミの唐揚げ、味噌汁(人参・玉葱・カボチャ・小松菜・エノキ・豆腐)、玄米ご飯。食後に女房の点てた抹茶、抹茶ケーキ。

詰まるところ、僕らは、自分たちのことを知らない。日に日をつないで二百万年を生きてきた。しかし、もっとも大切なつなぎを繋いでいない。

こうなると、ノーム・チョムスキーが言うように、ある日突然、言語は完璧なカタチで生まれたようにさえ見えてしまう。

言語と意識は、隔てられている。長いあいだ、言語は意識を持たずに存在していた。意識を持たないまま生きる、という状態について現代の僕らは馴染みが薄いが、二百万年のほぼすべての期間を意識なしでヒトは生きていたらしい。

意識は、僕らのどこに存在しているのだろう。

僕らは、根底の問いに対して、科学的な説明ができないでいる。

そのことが、実は、とても大切なのだと個人的に思うようになった。

説明できない、ということさえうまく説明できない。それは、遭遇している状況について、うまく説明したことになるだろうか――僕らが長いこと時間をかけているのは、それくらいのところだ。その愚鈍なまでの認識が、僕らを律していると言っていい。

僕らは、己についてさえ、その程度の持ち合わせなのだ。

他は、推して知るべし、である。

Appleは、macOS Catalinaの10.15.4に追加アップデートというかたちでモジュールを追加した。要するに、バグの修正だ。

 

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