もういい、というツマミ

 

晴れ。17度。

8時に起きる。

朝餉は、サニーレタス・大根・カニカマのサラダ、ベーコンと目玉焼き、味噌汁(人参・玉葱・小松菜・エノキ・豆腐)、女房の焼いたホットケーキ、アールグレイ。食後にコーヒー。

オーディオから音楽が流れている。素晴らしい演奏なので、音量を上げる。もうちょっと上げる。すると、どこかの時点で、うるさいと感じる。

不思議なものだ。

ちょっと手前で感じていた快感が、苦痛になる。分水嶺がある、ということが不思議なのだ。

すべてのことに、紙一重があって、それが世の中を統べているように見える。

より強い快感を得ようとして、もう少しツマミを回す。だが、よくよくみると、もっとという時には、快感はすでに最大になっている気がする。もっと、というのはだいたいにおいて余分なのだ。

僕らは「もっと」を制御することに腐心している。

時に、もっとは大きな転換をもたらすこともあるし、革新となって社会を変える。もっとは、行き過ぎると経済の停滞とか戦争とか人災というカタチを取る。

「もういい」という充足条件について、僕らはさまざまな装置を編み出してきたし、今も編み出しつつある。社会全体では、もっとを突っ走らせておいて、そのあとから、もういいを追いかけさせる。最強のもういいは、宗教だろう。どの宗教でも、最大の眼目は、欲を悔いさせることにある。もっとの戒めだ。

昼餉は、フードコートでチーズピザ、お茶。

オーディオ・アンプの音量ツマミは、よくできている。

ちゃんとした音量ツマミは、右側に回し切ると、目盛りはゼロを指すように作られている。音量の正しい考え方は、アンプに与えられた能力から、どれくらい音を絞って聴くのかと考えて目盛りを刻む。だから、音は常にマイナスの状態で出していることになる。ツマミは絞るためにあるのだ。

ところが、世間一般では見頃に逆に捉えられている。最小の音量がゼロで、右へ回すほどに数字が増えていく。最大は10なり100となっている。わかりやすいのだが、物理的な表現としては問題がある。

ツマミの表記によって、そのアンプは物事をどう捉えているかわかる。何しろ、真逆なのだから。

今では、正しいツマミは絶滅寸前だ。皮肉ではある。

そして、最大がゼロの音量ツマミは、「もういい」のイコンではないかとさえ、僕は思う。

夕餉は、かき揚げ天と海老天の蕎麦。食後にコーヒー、おかき。