社会性というセックス

晴れのち曇り。6度。
6時に起きる。
朝餉は、マッシュポテト、ハムと野菜の卵とじ、みそ汁(大根、人参、玉ねぎ、サツマイモ、大根の葉、豆腐、エノキ)、トースト、紅茶。
女房の出勤日で弁当を。
社会にとって必要なのは、言葉。それを駆使した法律。それらを植え付ける教育。僕らは、長い歳月をかけて教え込まれる。社会性とは、基底された規律と道徳のことだ。
一方で、言葉に依らない物事もたくさん学ぶ。それは不文律と呼ばれ、ある時にはもっとも重い社会性を帯びる。にもかかわらず、不文律は教育の埒外にあって教頭先生のように控えている。
僕らは、社会性そのものだ。セックスすらその管理下に置かれていると勘違いするくらいの。
だが、野生こそ僕らの奥底を支配しているものだ。それを抑圧したり解放したりすることで、僕らは社会性を担保する。だから、婚姻と子孫を作ることはいつも微妙なのだ。本来なら子孫を増やしたいというリビドーの産物が、忌避される行動として不倫と呼ばれることがある。衝動を罪だと断定したのは、僕らが作り上げたもっとも陳腐な社会性だと思う。それは宗教と呼ばれる言葉の一群だ。
衝動は社会性の対極にあるかのようだ。そこで、身体的衝動であるスポーツや感性的衝動である芸術が、置換行為ででもあるかのように奨励される。
昼餉は、弁当おかずの残り、ご飯、白湯。
7キロをジョグ。西南西の風。
セックスは、言葉でも法律でも教育でもない。いちばんの野生であり、いちばんの営為だ。社会性は、営為と対峙し、営為と会話し、突き放したり擦り寄ったりする。その会話は社会が続く限り終わらない。会話が続いているのは、営為が自然の側にあるものであり、社会性のような人工物ではないからだ。混じり合いようがないのだ。折り合いをつけようにも、術がない。しかしそれは、僕らにとって大切な均衡といえる。僕らを僕らたらしめているのは、実は均衡なのだ。均衡は時に破れるし、復旧できないところまで行く。均衡は、均衡でない状態をとおして均衡する。
夕餉は、マッシュポテト、アーリオオーリオ・ペペロンチーノ。
女房は遅くに帰る。残業で疲れている。
僕たちは、営為を抱えた社会性として生き、そして死ぬ。最初と最後は絶対的な営為であり、中間には何もない。あるのは社会性という曖昧で頼りない人工物だけだ。