作品という魔物

 

曇り、ときどき日差し。31度。

7時に起きる。

朝餉は、野菜たっぷりのコンソメスープ、ラタトゥイユをのせた蕎麦粉のガレット、豆乳、麦茶。女房がガレットを作るのはなん年ぶりだろう。

NHKの将棋と囲碁のトーナメント。

たとえば、ブラームスの交響曲第1番が完成までに21年の歳月を要したといわれると、凡人はまさかと思う。自分の根気のなさを棚にあげて、正味はせいぜい半年とかだろ、と勘ぐってみる。

第2番以降はポンポン作っているんだから、いくら背後からベートーベンの交響曲のプレッシャーに悩まされていたとはいえ、大半は他の仕事に没頭していて書きかけのスコアは存在も忘れていたに違いない。そう決めつけて、なぜか、どこかで安心する。実に手前勝手なことである。

構想から完成まで10年といった類いの作品は、映画にも絵画にも建築物にも書物にもゴロゴロある。それらも、多くの時間は頓挫していたか、頭の中に眠っていただけのことだろう。そんなふうに貶める傾向が僕にはある。貶めて、免罪符を得ようとするのはなぜだろう。

昼餉は、胡桃。

4キロをジョグ。這うようにして。

アニメーション会社の建物に火を放った男は、自分の作品を盗まれたと言っていたそうな。剽窃されたという怒りが、火を放つという行為に現れている気がする。すべてを焼き尽くし、無き者にするという感情は余程のものだ。

作品は、そういう怨みを伴って生まれてくることがままあるらしい。苦労して作った者はたまらないが、いったん発表したものは、自分のものではないという、これもまた芸術的な表現があるくらいだ(こういう曲解も、作品にはべったり張り付いている)。

夕餉は、冷奴、サバの味噌煮、キムチの炒飯、麦茶。食後にアイスモナカ。

そのアニメーション会社が作ったものを僕は寡聞にして存じ上げなかったので、いかに愛されていたかという報道を見ながら思ったものである。愛の強さは、その逆の感情を抱く者の蠢きを物語っていると。真逆だが、二つの感情を同時に抱く人間だってこの世にはふつうに存在する。

遣る瀬ないことだが、作品はつねに晒されている。

 

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