鼻につく?

 

晴れのち曇り。23度。

7時に起きる。

朝餉は、長芋の酢醤油かけ、枝豆豆腐、味噌汁(人参、玉ねぎ、キャベツ、豆腐、エノキ)、BLTサンドイッチ、アールグレイ。食後にコーヒーとクッキー。

星の王子さまのこと。内藤濯さんの昔の訳は、ところどころ靄や霞がかかっている。それが味わいだと思えられればいいが、版元の編集者によっても印象はずいぶん変わる。

池澤夏樹さんの訳はスラスラ読める。ほんとに滑るようだ。靄も霞もかかっていないようだ。文学としてそれはどうなのだろう、と思わないでもない。

冒頭の読み比べを――。

内藤訳

 六つのとき、原始林のことを書いた「ほんとうにあった話」という、本の中で、すばらしい絵を見たことがあります。それは、一ぴきのけものを、のみこもうとしている、ウワバミの絵でした。これが、その絵のうつしです。

 その本には、「うわばみというものは、そのえじきをかまずに、まるごと、ペロリとのみこむ。すると、もう動けなくなって、半年のあいだ、ねむっているが、そのあいだに、のみこんだけものが、腹のなかでこなれるのである」と書いてありました。

 

池澤訳

 6歳の時、原始林のことを書いた『ほんとうの物語』という本の中で、ぼくはすばらしい絵に出会った。それはボアという大きなヘビが動物を呑み込もうとしているところの絵だった。ここにあるのがそれの写しだ。

 本にはこう書いてあった――「ボアは獲物をぜんぜん噛まずに丸呑みにする。そのあとは動けなくなって、消化が済むまで6か月の間ずっと眠っている」。

 

僕らは、原著の著作権が切れたのを機会に、味くらべができる。一読してわかるのは、池澤さんのは現代風であること。説明的な部分が、ちゃんと埋め込まれている。たとえば、「ボアという大きなヘビ」がそうだ。一方の内藤さんはただ「ウワバミ」と素っ気ない。なんのための絵か、とおっしゃっているようだ。

池澤さんが「動物を呑み込もうとしている」なら、内藤さんは「一ぴきのけものを、のみこもうとしている」。けものという言葉を使うと、その臭いまでする。池澤さんが「丸呑みにする」なら、内藤さんは「ペロリとのみこむ」。ペロリは、もちろん原典にない。

読点がやたら多くて、ぶちぶちと切れている内藤さんに対して、池澤さんの読点は1つ。内藤さんは17もある。がしかし、内藤さんはあとがきの最後にこう書いていらっしゃる。

 

 平安朝の物語文学や日記文学には、もともと今日の句読点などというものがなかったのでした。というのは、言葉を生かす道が、読む人それぞれの息づかいにあるというしかとした自覚があったからで、私はふつつかながら、この日本語訳でそういう言葉の本道をねらったつもりです。

 

一見、矛盾している。だが、これは謎かけでもなんでもない。わかりやすい表明だと思うが、如何?

昼餉は、焼きそば。

現代は明晰というものを尊ぶ。翻訳にも同じことが求められる。池澤さんのは視界が開けて明るい。逆に言えば、立ち止まれない。物語に没頭できて、筋を追っていける。

言葉への強いこだわりはどちらにもあるはずで、どう受け取るかは人それぞれだ。最後まで読むと、中身がしっかりわかった、と言えるのは池澤さんのほう。内藤さんのは、靄の向こうにどんな景色が広がっているのだろうと、ちょっと思わせる。ここが両者のポイントになっている。

夕餉は、焼きそば、味噌汁(人参、キャベツ、揚げ、竹輪、ベーコン)、キーマカレーの残り、赤ワイン。食後にコーヒー、クッキー。

お二人の大きな違いは、本文が縦組みの内藤さんに対して、池澤さんは横組みという点。

内藤さんは文の構造をつうじて、物語が翻訳されていると思わせる。意味を掴み切れない翻訳臭がある(その点を指摘する仕事が編集者にはある)。池澤さんの文の構造は日本語として流れ続ける。翻訳臭はその文字組みにのみ顕著だ。

僕らは、明快であることに安心する。現代の病といっていい。不明快を放置するのは、責任逃れと言われかねない(それは不幸なことに、岩波書店という版元のイメージと重なってしまう)。曖昧なところは原著に当たるのが当然だが、それだけではないと思う。

内藤さんがおっしゃる「言葉の本道」は、巡り巡ってご本人の胸に突き刺さってくるものだろう。

僕が読んだ愛蔵版とは別に、内藤訳にはオリジナル版というものがある。とりあえず、それも読んでみないことには、と思う。

 

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