音楽も映画も

 

曇り、のち雨。13度。

6時に起きる。

朝餉は、ポテトとレタスのサラダ、りんご、味噌汁(大根、人参、玉ねぎ、ジャガイモ、豆腐)、トースト、ほうじ茶、コーヒー。

女房の出勤日で弁当を。

音楽は、深いところで生き方につながっている。僕らにとっていくつかある大切な味方のひとつだ。

そこには、相応の付き合い方がある。おろそかにすると、音楽は手の届かないところへ行ってしまっている。気づいた時には消えている。フルボリュームで間近のスピーカーから鳴っている瞬間に、その音楽は消えてなくなっているのだ。それは悲劇としか言いようがない。真の悲劇はすこし遅れてあとからやってくる。失ったことに、その重さに気づくという悲劇として。

昼餉は、弁当おかずの残り、トースト、ミルク。

9キロをジョグ。

レコードの時代、ヒトは心して聴いたものだ。大げさにいうと、聴き逃すまいと居住まいを正していた。ジャケットのデザインや絵、写真を眺め、ライナーノーツに目を走らせた。アルバムレコードは音楽を構成する要素だった。針をレコード盤にそっと置く。擦り切れることへのアンチノミーがそこにはあった。

それは郷愁として語るべきことではないのだと思う。

夕餉は、ふろふき大根、ポテトサラダ、野菜の卵とじ、味噌汁(大根、人参、かぼちゃ、豆腐、ネギ)、ポークカレー、赤ワイン。食後に桜カフェオレ、チョコレート。

映画は、バリー・レヴィンソン監督『Sleepers(邦題:スリーパーズ)』。こんな豪華な役者を揃えられた時代があったのだ。ロバート・デ・ニーロ、ダスティン・ホフマン、ケヴィン・ベーコン、ブラッド・ピット、ジェイソン・パトリック。分けても、ダスティン・ホフマンの声。

Sleepersが後味の悪い作品になったのは、原作者のロレンツォ・カルカテラの不可解なこだわりにあったのかもしれない。それが実話でないとしたら、作品の価値は大きく損なわれただろうか。僕らにとって、それは生き続ける真理であればいい。すべての創造にとって、何かが損なわれることとは、拘泥するあまり手の届くところにある真理から遠ざかってしまうことではないか。

それは実話だったかもしれぬ。カルカテラ自身に起きたことではないにせよ、誰かの身に起きたことだった。カルカテラが疑われたことは、カルカテラに責任があったのだろうか。今となってはそれほど価値ある問いに思えないのは、詰まるところ、カルカテラが創造したものは真理に手が届いていたということかと思う。

 

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