それが来る

曇り、ときどき日差し。5度。
6時に起きる。
朝餉は、ハムと野菜の卵とじ、お汁粉、白湯。
女房は出勤日。
この国は突っ走っている。
世界で最初に、この国は極端な減少に転じている。四分の一くらいに減るという専門家がいる。人口がそうなれば、すべての規模はやがてそうなる。限界集落という言葉が登場するずいぶん前から、すでに集落は後退している。山間では数十キロ単位だ。
道はすでに手入れができなくなった。橋が落ちているし、電柱が折れている。もののけが跋扈している。社会という言葉が及ばない地帯がどんどん増えるので、身を護る支度も必要になる。
良い悪いではなく、すでにそれは到来している。外周の自然が、社会を飲み込んでいく。僕らはこぢんまり暮らすようになる。
昼餉は、卵とじの残り、ご飯、和菓子に白湯。
やがて、世界がそうなっていく。国ごと失くなるところも出てくる。押しやられていた獣たちがまた出てきて、均衡を図ろうとする。
僕らは、摂理というものに組み込まれている。そのことを改めて刻もうとしている。
僕らの野生としての根源性は、つまるところ、僕らを基底している。増えすぎたので、殺し合うようになる。疫病も飢饉も干ばつも洪水も頻繁に起きる。増えすぎた弊害がいたるところに顔を出す。
良い悪いではなく、それを因果として僕らは受け入れる。野生の根源性がそうさせる。
僕らの野生は、備えている。数を減らすことで、摂理を受け入れる。増えすぎた、という意識は無意識の根源性として僕らを包み込んでいる。
夕餉は、マッシュポテト、鶏そぼろの二色ご飯、白湯。
残業で女房は遅くに帰宅。
生き物としての僕らは、尊厳とか生命の神秘といった、社会的で利便的な価値観が自然の摂理の前に後退していくのを見守っている。
決してヒステリックではない。摂理に基づく野生は、どこまでも冷静だ。