今だって無造作だ

 

曇り。24度。

6時に起きる。

朝餉は、バナナ、レタスとキュウリ、パプリカ、玉ねぎのサラダ、味噌汁(人参、玉ねぎ、小松菜、豆腐、エノキ)、BLTサンドイッチ、アールグレイ、豆乳。食後にコーヒーとアイスクッキー。

引き続きの、後片付け。

デジタルガジェットの類いが、まだ残っている。実に手強い。

その中から、稼働するモノをより分ける。買取店に持っていったところで高が知れているのに。二十年近く前のデジカメに刺さったままのSDカード。読み取ったやつを眺めているうちに時間が経っていく。口紅を引いた義母が、僕の傍らで笑っている。

それらとは別に、大量のポジフィルムが手付かずにある。スキャンしてデジタルデータとして残そうにも、確認だけで余生を使い果たしてしまいそうだ。突き動かしていたのは、なんだったのだろう。

残しておいても、誰が見るでもない。問い始めたらキリがない。ライカもニコンも、フィルムカメラは手放してしまった。

フィルムはネガでもポジでも劣化は進む。デジタルデータは変わらないが、解像度は今の4分の1くらいだ。見ようによっては劣化といえる。それに、とりあえず照明にかざしてみることもままならない。

ポジフィルムは仕事で使っていたのを持ち帰っていた。無造作に撮っていたのがわかる。構図もピントも、無造作なのだ。

昼餉は、チーズトーストとコーヒー。

その時には必要だったのだろうが、その多くは今にしてみると滑稽なモノばかり。誰もが、同じような思いを抱いて後片付けしていらっしゃる、と想像する。日本の夕方は、諧謔と自虐の往還のうちに暮れていく。

巻き添えにするな、ごうごうの声が聞こえる(いや失敬)。

夕餉は女房が作った、切り干し大根、味噌汁(人参、エノキ、小松菜、豆腐)、オムレツ。食後にコーヒーとアイスクリーム。

日曜美術館のアートシーンでWilly Ronisの作品を久しぶりに見た。京都の展覧会は23日までという。

 

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見るように、読みたい

 

晴れのち曇り。25度。

6時に起きる。

朝餉は、バナナ、キャベツとレタス、コーン、キュウリ、玉ねぎのサラダ、味噌汁(人参、玉ねぎ、ズッキーニ、豆腐)、ハムと目玉焼き、トースト、アールグレイ、豆乳。食後に人形焼とコーヒー。

女房と街を散歩。5キロほど。アジサイの花が家々の庭で競っている。米原の家のも、青い花をつけているだろうか。

昼餉は、レンコン揚げ、ずんだ餅。

絵には、かなわない。

5秒もあれば、事足りる。一瞥というではないか。

わかったつもりにさせてくれる。それがすごいのだと思う。音楽も文章も、もっと時間がかかる。近いのは俳句かもしれないが、一瞥とまではいかない。

一瞥さえすれば、すべてがドッカーンと入ってくる。それから、細部を覗き込むといろいろわかってくるが、それは理屈の部分だ。僕らは、理屈の生き物の側面を持たされている。そこでは一瞥が許されない。放っておくと、不幸を招き寄せてしまうから、僕は一瞥を後生大事にして手放さないようにする。

もっとも、そうやって肩肘張ってしまうと、それはそれでいけないらしい。一瞥は、一瞥でしかない。その塩梅で生きねばと思う。

夕餉は、味噌汁(人参、玉ねぎ、豆腐、エノキ)、焼きそば。食後にアイスクリーム。

読むことに疲れて、目を遠くに向ける。

風景が頭に流れ込んでくると、文字が希釈していく。

その瞬間の混ざり。あれが、一瞥の凄みなのだと思う。

頭の芯が、塊から流れだそうとして震える。

一瞥の本性がそこにある。

 

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分別の攻防

 

曇り。23度。

5時に起きる。

朝餉は、バナナ、キャベツとレタス、パプリカ、コーン、カニカマのサラダ、味噌汁(人参、ズッキーニ、玉ねぎ、豆腐、エノキ)、さつま揚げの野菜炒め、トースト、アールグレイ、豆乳。食後にコーヒー。

5月のまとめをば。アクティビティは15日、総距離は115キロメートル。スクワット、プッシュアップ、腹筋はそれぞれ3セットをほぼ毎日。

女房と片付けの続き。

片付けたつもりでも、後から出てくる出てくる。これでもかという攻撃。処分するほうへ片っ端から分別していると、女房がいちいち有用性を訴えてくる。それは正しい。どんなモノでも、有用であることは認めねばならない。

だが、十年以上も使っていなかったし、着ていなかった。その一事が無用であることの証明になっている。

けっこうな値段になるモノを買い取り店へ持っていくが、買い叩かれる。店もお腹いっぱいで、付け値で嫌なら持ち帰ってくださってけっこうという笑顔。そんな僕らでさえ、それほど買っていないと思う。世間の老人家はどれほどなのだろう。

昼餉は、豆パン、小豆パン。

人形は親戚の子供にやるから。女房が言う。だから処分しないでよ。

自分たちで処分できないモノを、人に押し付けないでよって。きっと相手はそう思うよ、と僕。

夕餉は、キムチ、キャベツとポテトサラダを添えたアジフライとメンチカツ、味噌汁(人参、玉ねぎ、エノキ、豆腐)、玄米ご飯。

女たちが捨てられないのは、身を切り刻まれるからだろう。擬似的ではなく、現実に痛いのだ。僕だったら、その痛みに耐えられないかもしれない。

死んでしまえば、誰が処分するかわかるか?

そいつは、お前のモノをゴミとして処分するんだ。

どうせ分別するなら、自分でやった方がまだしもだろ。

僕はそれを言い続けた。今も、言っている。

 

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ドッペルアナスチグマットもいい

 

晴れのち曇り。25度。

6時に起きる。

朝餉は、バナナ、キャベツとレタス、キュウリ、カニカマのサラダ、味噌汁(人参、玉ねぎ、ズッキーニ、豆腐)、ハムと目玉焼き、トースト、アールグレイ、豆乳。食後にコーヒー。

Revoxの音が劇的に変わったので音楽を聴く時間が増えた。

ボリュームを絞るにつれて低音が消え、それに引っ張られるようにして高音が沈んでいたのに、今はそれぞれの音がバランスはそのままにスケールが縮小していく。簡単に書いたが、これはすごいことだ。

EqualizationではないOptimisationだ、とLinnは釘を刺す。よほどEqualizationがお嫌いとみえる。環境を補正するのであって、原音にはいっさい触れていない。だから、Equalizationとは言わない。というわけだが、僕にはよくわからない。

Linnがいう原音とは、なんだろう? 特定のスピーカーが鳴れば、それは詰まるところ、色のついた音ではないかと思う。

君、それは間違っている、と言われそうだ。

劇的に変わったんだから、喜んで聴きたまえ。Linnが言いたいのはそれだけだろう。

昼餉は、かき揚げ蕎麦。

昔、よく使っていたpeakのルーペを引っ張り出してきて、4色刷りの印刷物を確認していたら、改めて15倍という倍率の精度に恐れ入った。Y版のズレが手に取るようにわかる(今はそんな版ズレは理論的にも物理的にもないはずなのだが)。

東海産業が作ったこのルーペの紹介に曰く。

「ピーク・スケール・ルーぺ15×は、拡大率が15×の広角ルーペとガラス・スケール(4種類あって交換可能)とを組合わせたもので、物体にこのスケールを密着させておいてルーペを覗くことにより物体の長さ、あるいは角度、円弧の半径などをきわめて簡単かつ正確に測定することが出来ます。

これは同系統のピーク・スケール・ルーペ7×あるいは同10×の拡大率を一挙に15×まで大きくしたもので、しかも直径14mmの円形視野の端まで鮮鋭に見られるようにするため、ルーぺはとくに像面の湾曲と横の色収差とをほとんど完全に補正した新設計の広角型であります。」

 

僕は図体の馬鹿でかいアナスチグマット・ルーぺ4×も持っていて、こちらは35mmフィルムの全画面検査ができる直径58mmの視野を持っている。どちらのルーペも、ライトテーブルではずいぶん世話になったものだ。

滅多に使わないくせに、机に置いておくと心安らぐのは、プロフェッショナル・ツールが身につけている潔さのなせる技かもしれない。たとえは悪いが、メートル原器の凄みとでもいえようか(「ほとんど完全に」などという意味をなさない文章を使っているあたり、大丈夫か東海産業と思わないでもないけれど)。

夕餉は、ポテトサラダ、味噌汁(人参、ズッキーニ、玉ねぎ、豆腐、エノキ)、炒飯。

コマ収差とか非点収差といった収差を解消していることをスチグマットと呼ぶのだが、アナスチグマットは球面収差も解消している、いわば完璧なのだ。

アナスチグマット――これを3回ほど唱えてみる。何か良いことが起きそうな気になるのは僕だけだろうか。

15倍ルーペは、机の隅っこに居場所を作ってやった。そこは、南部鉄器のクリップ入れのすぐ隣という、好立地ではある。

 

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降ってはこない

 

雨のち晴れ。26度。

7時に起きる。

朝餉は、抜き。

 

昼餉は、ステーキハウスでハンバーガー、季節のサラダ、ケーキとアイスクリーム。

市役所や銀行であれこれ手続き。懸案が少しずつ片付いていくと、女房は元気なった。

図書館へ寄る。ショーン・タン著、岸本佐知子訳『鳥の王さま』(河出書房新社)。そばの図書館のタンの蔵書は充実しているが、一冊を除いてすべて貸し出し中だ。個展のおかげかな?

夕餉は、ゆで卵のサンドイッチ。

AppleはiOSのパブリックベータ ・プログラムを更新してβ3をリリースした。

ショーン・タンの言葉――

(前略)

創造的なことなんて、白い紙を前にして何ひとつ浮かんでこない。インスピレーションのイの字も、五感のゴの字もない。世にいう「描けない病」というやつだ。そんなとき、僕にできることはただ一つ――とにかく描いてみる。

 画家のパウル・クレーは、この単純な行為のことを「線を散歩させる」と呼んでいる。日々僕がやっているのは、まさにそれだ。スケッチブックの背景の中を、エンピツの気の向くままに歩かせてみる。これといった当てもなく、ただ途中で何か面白いものが見つかることを期待しつつ、まっすぐの線や折れ曲がった線、ぐにゃぐにゃの線や輪っかが、ふとした拍子に、山や顔や生き物や機械や、ときに抽象的な心象風景に姿を変える。意味なんて二の次、ただ純粋に“手を動かす”だけ(小さい子供は誰に教わらなくとも、自然にこれをやっている)、イメージは、あらかじめ頭で考えてから描くのではなく、描きながら考えつくものだ。もっと言うなら、描くことは、それじたいが形を変えた思考なのだ。鳥はさえずるとき、歌を喉で“考え”ている、それと同じだ。

 クレーはもう一ついい喩え方をしている。いわく、アーティストは木で、経験という豊かな堆肥から――見たり、読んだり、聞いたり、夢に見たものから――養分を得て、葉や花や実をつける。その園芸理論でいくならば、アートは何かを元に別の何かを作りだすことしかできないし、アーティストは一から何かを創るのではなく、ただ形を変えているだけということになる。だからといって、その作業は楽でも単純でもない。良い絵は地道な努力の上にこそ成り立つ、というのが僕の持論だ。

(後略)

 

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Shaun Tan

 

曇りのち雨。28度。

6時に起きる。

女房と散歩。

朝餉は、バナナ、レタスとキャベツ、パプリカ、コーンのサラダ、味噌汁(人参、玉ねぎ、豆腐、エノキ)、ハムと目玉焼き、トースト、アールグレイ、豆乳。食後にコーヒー。

ちひろ美術館へ女房と。『ショーン・タンの世界展 どこでもないどこかへ』を観に。

イラストレーターであり絵本作家であるショーン・タンは胸のうちを掻きむしる。鉛筆画の一枚一枚がいとおしいし、その創作への道筋も、物語との対峙の仕方も、もちろん造形も。インスピレーションという言葉に戸惑い、呆然と立ち尽くしながら鉛筆を動かす。その創作の姿勢も。

遅い昼餉は、かき揚げソバ。

本格的な画展が日本で開かれるのは初めてで、かねてより楽しみにしていたし、期待は何倍にもなってもどってきた。何と言っても、未翻訳の最新刊『内なる町からきた話』の原画である油絵が見られた(物語はとても魅力的で、『クマとその弁護士』には感じ入った)。

『夏のルール』や『セミ』、『アライバル』、『エリック』といった作品の膨大な草稿は、とてもじゃないがしっかり見ようと思ったら何日もかかる。

3時間ほどいたが、絵を眺めすぎてしまい、案の定というべきか、気持ち悪くなってしまった。一枚だけ見るにしてもけっこうな体力が要るのに、大量の画業をいっときに目の当たりにしたのだから仕様がない。

再現されたデスクまわりの様子とか、異形の模型の数々、アカデミー賞を取ったアニメーション、インタビュー。時間が足りないのに、疲れは尋常でない。

公式図録と『eric』の限定装丁本、『robotフクロウ』のキャンバスアートを求める。一人でもう一度、行こうか。

夕餉は、お握り。

美術館が苦手だと気づいたのは年を取ってからだ。感受性のキャパシティが振り切れてしまう。足早に通り過ぎれば良さそうなものなのに、気づくと見入っている。やっかいだ。

 

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Kaler Shock!

 

晴れ。32度。

7時に起きる。

朝餉は、リンゴ、ポテトサラダ、小松菜とさつま揚げ、モヤシのゴマ油炒め、納豆、味噌汁(人参、玉ねぎ、豆腐、小松菜)、玄米ご飯、豆乳。食後にコーヒーとアップルパイ。

ん? イリヤ・カーラー(Ilya Kaler)って誰だっけ。と思って聴き始めたバッハの無伴奏バイオリンのソナタとパルティータ。これは上半期(といってもまだ1ヶ月ほど残っていますが)最大の収穫。11年前の録音だが、知らずにいたことを恨む。

カーラーがアルバムをリリースしたNAXOSというレーベルはこういう録音をたまにものにして、聴く者をして椅子から転げ落ちそうになる経験を味わわせてくれる。

淀みない粒立ち、全曲を一幅の絵として見せながらも、各曲が収まるべきところに柔らかく嵌っている。誇張も解釈もない。音の連なりが連なりとして在る。ドラマチックではないのに、聴き終えてからそのドラマチック性に気付く。なにかが躰を通り抜けた痕跡がある。

昼餉は、抜き。

女房は茶道の友人宅へ。久しぶりのお点前。

9キロをジョグ。

夕餉は、レタスとキャベツ、もやしのサラダ、味噌汁(人参、玉ねぎ、小松菜、豆腐)、チーズハンバーグ、玄米ご飯。

 

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勝負を創造する

 

晴れ。33度。まだ5月なのに。

7時に起きる。

朝餉は、リンゴとバナナ、レタスとパプリカ、キュウリのサラダ、味噌汁(人参、小松菜、玉ねぎ、エノキ、豆腐)、BLTサンドイッチ、アールグレイ、ミルク、コーヒー。

糸谷哲郎八段と田村康介七段の一局は、糸谷さんがあっという間に寄せてしまった。40分ほどの対局は一本道ではなかったと思うが、コンピュータを相手にしているかのようで躊躇というものがなかった。中盤以降は、田村さんが負けを予測しているかのようで、それなのに逡巡しなかった。

二人して、迷いを見せたら負け、という目新しい勝負事を始めていた。

人知では歯向かえない難敵の存在。岐路に立っている将棋を、将棋指しが助け起こそうとしている。最初はそうでも、最後に手を差し伸べたのは、将棋のほうだった。

昼餉は、ざる蕎麦。

AIが仕事の妙を奪おうとしている。大半の人々が感じている。

だが、そのことで生じる躊躇も、逡巡も、迷いも――それを美徳と呼んでいいのなら、全部がそこにある。

時間に追われ、逃げ続け、己を見失い、負けて怯える。解決などできず、挑戦に敗れ、退路を断たれ、明日への答えを見失う。

だが、それこそ僕らの持っている力にほかならない。それは力だと思う。深みに嵌まれるのは、僕らだけなのだ。脱出した人はわずかで、ほとんどが沈む。

沈むことにこそ、得られぬことが潜んでいる。

差し伸べられる手は、目の前にあるのに、滅多なことでは気付かない。

それでいいわけがない。だが、それがすべてだと思う。

夕餉は、ポテトサラダ、味噌汁(人参、小松菜、エノキ、豆腐、玉ねぎ)、唐揚げ、玄米ご飯。

 

  眼差しの不実さと

  気高さに溺れていた

 

  狂おしい夏だった

  青空も声も

  小さな死のように

 

  これ以上愛さない

  禁じる愛おしさで

  瞳は傷口と知る魂の

 

  別々の惑星に

  僕たちは棲む双生児さ

 

  野獣の優雅さで

  沈黙を舌で味わう

  罌粟のように

 

  切なさで胸を痛めながら

  君の可憐な喉笛から

  あふれ出した虹の涯は

  美貌の青空

 

  狂おしい夏だった

  手に触れるすべて

  欠片の死のように

 

  君の血が透き通る

  野蛮な瞳見ては

  途方に暮れる真夏の楽園

 

作詞は売野雅勇さん。『美貌の青空』という歌は、土方巽さんの文集のタイトルから坂本龍一さんが選んだと言われる。作曲は彼だ。

 

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花菖蒲はまだ

 

晴れ。32度。

8時に起きる。

朝餉は、リンゴとバナナ、サニーレタスとキャベツ、パプリカ、コーンのサラダ、長芋のすりおろし、ベーコンとスクランブルエッグ、味噌汁(人参、玉ねぎ、小松菜、豆腐)、トースト、アールグレイ、ミルク。食後にコーヒー。

ちょっと調べ物をしていて、立川談志さんの映画評に目が止まった。

 

仲間と行く映画でも、嬉しい時に出掛けて逢う相手(映画)でもない。逆に、何か暗い時、淋しい時、ふとやり切れなくなった時、ふて腐れた時、心が、 身体が、寒くなった時、腹が空った時、そのまま「ミラーズ・クロッシング」を観てみたら如何と思う。完全に沈む筈だ。しかし、この映画を観て、このハシャギ過ぎて気が狂っている世の中にたまには静かに向かってみろ、と思うのである。

 

こんな切っ先を突きつけてくる男は談志さんくらいである。この映画は観た覚えがあった。なにしろコーエン兄弟だ。日記を検索したらあったあった。珍しく褒めている。

 

映画はジョエル・コーエン監督「Miller's Crossing」。骨格のしっかりしたマフィア物。最後まで踏ん張った男の話。短編小説の読後感が漂っている。公開から二五年も経っているというのに、今ごろになって知る。

ある問いに僕らは答える義務がある。それは、この世を支配しているのは偶然か、必然か――という木訥なものだ。それに答えないかぎり、人生は決着していかない。

この映画は、それと対峙しているから面白い。一方で、生真面目なまでに答えようとしているから、どこまでも地味だ。

コーエン兄弟はがんばったのだ。

 

興行的には芳しくなかったらしいが、ほんとに世の中はわからないとつくづく思う。

昼餉は、抜き。

10キロをジョグ。猛烈に暑い。

山本テツヒコさんとか杉浦史典さんといった陶芸家の作品をあまり目にしなくなった。こちらが怠けているだけかもしれない。

だが、目にしない、ということは必ずしも悪いことではないのだ。元気で作陶にお励みならいいのだが。

欲しいと思っていても、なかなか手に入らない。それが普通なのであって、今の時代はちょっとおかしいのだ。

ごくたまに、記憶の棚卸しをするように、陶芸家の名前を暗誦してみる。言霊を信じるなら、それは無視できない行いである。

夕方、気温が下がってからクルマで女房と公園のバラを見に。

夕餉は、レタスとキャベツ、コーンのサラダ、鳥の唐揚げ、味噌汁(人参、玉ねぎ、小松菜、豆腐、エノキ)、玄米ご飯。

 

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その本は僕の本棚へ

 

晴れ。29度。

7時に起きる。

朝餉は、サニーレタスとパプリカ、キュウリのサラダ、ほうれん草とベーコン、もやしのバターソテー、味噌汁(人参、玉ねぎ、豆腐、ワカメ)、トースト、リンゴとバナナ、アールグレイ、豆乳、コーヒー、チョコレート。

シューベルトのピアノ・ソナタをヴィルヘルム・ケンプの演奏で。

すると、どうしたって欠番が聴きたくなる。でも、かのアンドラーシュ・シフ先生でさえ、10番は収録していない。楽譜が見つかっていないのだから、それは当たり前だが、欠番も聴きたいと思わせるこの芳しいソナタ集のほぼ全貌が日の目を見ることになって僕らはその労力に感謝せずにはいられない。

未完成が代名詞みたいなシューベルトなのに、それを憎めないのは、遺された楽譜がこよなくチャーミングな音の連なりによって埋め尽くされているからだろう。

昼餉は、ざる蕎麦。

女房が処分しようとしている本から何冊か抜き取る。互いにこれをやるものだから、捨てたつもりが元の棚にいつの間にか収まっており、背表紙が快哉しているように見える。

夕餉は、もやしサラダ、キャベツ添えコロッケ、味噌汁(人参、揚げ、玉ねぎ)、女房が作ったオムレツ。

驚いたのは、自筆のサインと絵が添えらたジャック・マイヨールの単行本が紛れ込んでいたことだ。わかっていて処分するとは、女房もなかなかの玉ではある。

 

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歳時のギター

 

晴れ。27度。

7時に起きる。

朝餉は、バナナとリンゴ、ほうれん草のおひたし、サニーレタスとキュウリ、トマトのサラダ、味噌汁(人参、玉ねぎ、ジャガイモ、わかめ)、BLTサンドイッチ、アールグレイ、豆乳。食後にコーヒーとクッキー。

人生の仕舞い方を描いたNHKのドキュメンタリーを観る。女房が録画しておいてくれた『秩父山中  花のあとさき・最終章~ムツばあさんの歳月~』は、限界集落に暮らす老人たちの様子を10年近く追ったもので、村落で最後の老人が死ぬと、あとには老夫婦の植えた木々が花をつける、桃源郷のような景色が広がる。無人となった村には、テレビのドキュメンタリーを観たという人が絶えることなく訪れているという切ない話だった。

田畑を自然に返そうと、老夫婦が植林をしながら暮らす日々が演出なしに描かれている。それだけで愛おしくなる。

昼餉は、抜き。

酒を求める。『White Horse Fine Old』。千円のウィスキーは、どれも挨拶をしてくるその仕方に符牒がある。わかる人には、何をか言わんやですね。

女房は夕方から外出。友人と会食して遅くに帰宅。

年を追うごとに『Jazz Samba Encore!』を聴く日が前倒ししている。暑くなる一方の地球の前倒し? それともこちらの堪え性がなくなっている? ルイス・ボンファのギターを我慢しているのは、汗水垂らして動き回った一日の終わりに、モヒートをぐいっと飲るようなもの。今年は、今日がその日。

夕餉は、サニーレタスとパプリカ、キュウリのサラダ、イワシの梅肉はさみ揚げ、あさりの味噌汁、玄米ご飯。

 

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音づくりとは

 

晴れ。25度。

8時に起きる。

朝餉は、トマト、目玉焼き、味噌汁(人参、玉ねぎ、ジャガイモ)、トースト、アールグレイ。

女房は、クワイアの打ち合わせに。遅くに帰る。

家の掃除。ストーブをしまったり。

Linnのファームウェアをアップデートして、音楽を流す。

Revoxのプロファイルは依然としてサポートされていない。にもかかわらず、音はとても良くなっている。新しいSpace Optimisationのおかげだとしたら、ちょっとびっくりだ。これまでは特定のピークにスタティックな補正をかけていた。それを、部屋の形状や信号の変化による減衰を考慮した動的補正に変えたという。

イコライゼーションに懐疑的な向きには疑問がたくさんある。部屋のサンプリングはあくまで申告データに依っている。要するに、ダイナミック補正を検証する仕組みがよくわからない。マクロ的には、これもスタティックに見えてならない。

それに加えて、プロファイルのないスピーカーは新しいサポートが十全に受けられないだろうと思う(詳細は不明だが)。

もともと低音が出ないRevoxが、しかしいい感じに奏でようとしている。高音も中音も解像度が増したようで、定位も高まっている。狐につままれたみたいだ。最新のmacOSのI/O周りとか、iTunesのPCM出力処理の向上も寄与している可能性はあるのだろうか。

昼餉は、抜き。

モジュール交換できる新しいDS『SELEKT DSM』は、ネットワークオーディオを再定義すると宣言して商品化したものだが、Linnの技術指向の強さがよく表れている。クラリティの高さこそLinnが追い求めてきた目標だと思うが、付いていこうにも財布はなかなか許してくれない。デジタル機器にアナログレコードのようなタクティリティを持ち込んだというSELEKT DSMがいつまで生産されるものか。

案外、短命なのではないかと僕は思っている。Linnは良きにつけ悪しきにつけやれることはとりあえずやってみる。ちょっと乱暴なところは、付き合うにふさわしいメーカーかもしれない。Space Optimisationによってユーザーの部屋の特性にまで踏み込んだLinnは、究極のカスタマイズについて考察をいよいよ深めようとしている。

夕餉は、豆乳をかけたシリアル、いなり寿司。

このまま進むと、LinnはPCも作りかねない。モジュール化とは、まさにPCだ。そこの処理を人任せにするフラストレーションが徐々に溜まりそうだ。Space Optimisationを推し進めていくと、リアルタイムのイコライゼーションが必要になりそうで、専用PCはその点でも要請される。そうなったら僕は卒業だなと思ったりもする。

本音を言えば、Space Optimisationで音が変わるということは、機器の側にポテンシャルはもともとあったということだ。潜在力といえば聞こえは良いが、僕はもったいぶった感じがしてならない。

 

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軽視しているわけではないのに

 

雨のち晴れ。22度。嵐が去った。

8時に起きる。

朝餉は、レタスとトマトのサラダ、さつま揚げと目玉焼き、味噌汁(人参、カボチャ、玉ねぎ、豆腐、わかめ、ネギ)、トースト、アールグレイ、コーヒー、クランチチョコレート。

フランスのジャーナリストであるアガト・メリナンさんに尋ねてみたいのだ――。

その文章『沈黙の作曲家』は力作だ。困惑しつつも、メリナンさんには書くべきことについて、ある種の確信があった。にもかかわらず、それはいっこうに焦点を結ばない。それはメリナンさんのせいではないというのに。

歯がゆい思いから逃れられない。そのこと自体を正直に吐露しようとした。だから、エリック・サティはそこに居るように思える文章が書けた。でも、エリック・サティはやっぱりどこにも居ないのだ。

きっと、そういう思いを抱いていた。

エリック・サティほど、人らしい人はいない。異端とか変人といった言葉で表現することは、どこかで天に唾することに違いない。そのことをずっと感じながら、文章を書いていた。そうではないですか、メリナンさん? 

昼餉は、焼きそば、味噌汁(人参、玉ねぎ、揚げ)、おにぎり、ミルク。

 

エリック・サティ--“沈黙”の作曲家

Agathe Mélinand

翻訳:村松恭平、谷 明子、沖田夏弥

 

エリック・サティ(1866~1925年)なる人物を語るのは厄介な作業だ。彼の人となりを理解するのは難しい。彼は抵抗し、冗談を言い、あなたに背を向け、そしていつもアルクイユ[パリ南部の都市]へと帰ってゆく。誰もそこに入ることを許されなかったみすぼらしい部屋に彼は閉じこもっていた。彼について言及するのは非常に困難な挑戦だ。一体どのサティについて語ればよいのだろうか? ビロードの服を着た革命家の青年? その人生の最後には公証人のような[黒い]服を身にまとったサティ? サン・ジェルマンの町外れにあったノアイユ家にいつも歩いて通っていたサティ? あるいは、アルクイユで「飲んだくれ、溝にはまって寝ていた」サティ? キャバレー「シャ・ノワール(黒猫)」で演奏していたピアニスト? アルクイユ=カシャン青少年クラブで活動していたサティ? それから、彼が描いたデッサンもあれば、著作も存在している。840回続けて[同じフレーズを]反復する『ヴェクサシオン』もある。彼は言う。「この主題を演奏するためには、あらかじめ心構えをしておくのがよいでしょう。大いなる沈黙の中で、身動きせず静粛に」。『ヴェクサシオン』は15時間に及ぶ曲だ。ジョン・ケージと他の9名のピアニストたちが、1963年にはじめてこの曲を演奏した。

 それから? 突飛な内容の彼の講演録や、音楽について論じた彼の新聞記事、格言、怒りの叫び、詩、そして彼のさまざまな主張を引き合いに出すべきだろうか? 彼が所属したアルクイユにある共産党の第一支部について話さなければならないのだろうか? かの有名な『グノシエンヌ』と『ジムノペディ』についてのみ語るべきか? それらの作品は多種多様な彼の音楽をいくばくか見えなくしてしまう。ジャン・コクトー、モーリス・ラヴェル、ルネ・クレール、あるいはピカソ ―― 誰が語るサティについて話さなければならないのだろうか? 画家で、かつては空中ぶらんこ乗りでもあったシュザンヌ・ヴァラドンの束の間の恋人だったサティについて? クロード・ドビュッシーの大切な友人だったサティについて? ドビュッシーは彼にコトレットを作ってあげていた。サティの貧困生活や神秘主義についても話さなければならないのだろうか?「導きのイエスの芸術首都教会」のこの創設者を賞賛しなければならないのだろうか? 幸いにも、彼だけがこの教会の司祭であり、唯一の信徒であった。あるいは、水道も電気もなかったアルクイユの部屋にいる彼に寄り添うべきだろうか? サティはそこで28年もの間、特に蚊に悩まされながら暮らしていた。

(後略)

 

5月17日に書こうと思って忘れていた。1866年のその日、エリック・サティはフランスに生まれている。

夕方に女房と家を出て、クルマで東京へ。

夕餉は、サービスエリアで菓子パンとフルーツミルク。女房は二色そぼろ弁当。

400キロのうち僕が運転したのは100キロほど。女房は睡魔と戦い、頑張った。家に帰ったのは夜中を過ぎていた。

 

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絶望という名の言葉

 

晴れのち雨。21度。夜に雨脚、強く。

6時に起きる。

女房と4キロをジョグ。

朝餉は、バナナとリンゴ、レタスと茹で卵のサラダ、味噌汁(人参、カボチャ、玉ねぎ、豆腐、ネギ)、ピザトースト、アールグレイ、ミルク、コーヒー、バームクーヘン。

東からの突風が、ツツジの枯れ花を琵琶湖へと吹き飛ばす。風が止むと、名も知れぬ蝶が次から次へとやってくる。それとわかるのはクロアゲハくらい。

名前がなければ、この世に存在を許さないとでも言いたいのか。

見上げれば、星々。

名付けの順番待ち、その虚しさが輝いているというのに。

クロアゲハ。その名の妖しさも記憶の淵に迫り来る。

昼餉は、女房が作ったチーズサンドイッチ、コーヒー。

ちょっと肌寒い時に手放せないデニムシャツといえば、それはもうJapan Blue Jeansの8ozにとどめを刺す。これ一着あるのとないのとでは、大袈裟にいえば暮らし方が変わる。シャツが欲しいと魔が刺した時は思い起こす。

このシャツが慰撫してくれるのは、それまで気付かずにいたささくれだったりする。羽織らなければ、わからなかったことだ。

服はときとして、そんなことをやってのける。鏡の前で、僕はそのセルビッチ・シャツの佇まいを確かめる。

嵐の日、8ozのありがたみ。

夕餉は、納豆、アジフライ、味噌汁(人参、キャベツ、玉ねぎ、カボチャ、豆腐、ネギ)、チャーハン。食後に女房の作ったクランチチョコレート。

 

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Le Petit Prince

 

曇り、のち日差し。22度。突風。

6時に起きる。

女房と4キロをジョグ。

朝餉は、肉じゃが、キャベツとレタス、長芋のサラダ、ベーコンと目玉焼き、味噌汁(人参、玉ねぎ、カボチャ、揚げ、ネギ、とろろ)、ドイツパン、アールグレイ、ミルク、コーヒー、バームクーヘン。

走って帰ってきてから、南東の強い風が吹き始め、木々が大きくたわむ。春の嵐は、夕方まで吹き荒れた。

昼餉は、女房の作ったきし麺。

ふと思って読み始めた『星の王子さま』は、子供の頃の女房が買った岩波の愛蔵版で、彼女がどこからか持ち出してきてくれた。

僕は冒頭のウワバミの話くらいしか覚えていなかった。翻訳が内藤濯さんのオリジナルのハードカバーを小学生の僕は買い、その新書版のようなサイズの本から立ちのぼる独特の匂いにちょっと気分を削がれながら読んだのを覚えている。

小生意気だったので、どうせ子供向けなんだと見下して飛ばし読みしたはずだが、今になって目から鱗が落ちるようにして頁を繰ることができる。年月の経ちようによっては、小生意気であることも良い方へ振れるらしい。

内藤濯さんは日本にドビュッシーを紹介した仏文学者だが、この本はその後、さまざまな翻訳者を輩出している。ところが、倉橋由美子さんも池澤夏樹さんも、なぜか内藤さんの書名を踏襲している。これ以上ないくらいの的確性を有していたのだ。

夕餉は、アジフライ、豚バラ肉のキャベツチャンプルー、味噌汁(人参、玉ねぎ、揚げ、ネギ)、玄米ご飯。食後にバームクーヘン。

巣立ったばかりらしいトンビが近所の電信柱のてっぺんで鋭く鳴いている。飛び立つと、どこからかカラスがやってきて執拗に追いかけ回している。

 

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